第一話 これは、面倒なことになった。
これは、面倒なことになった。
目を開けた先にあったのは、白い天蓋だった。
蔓草を模した銀糸の刺繍が施された薄桃色の垂れ布には、朝の光を受けてきらきらと輝く、小さな硝子飾りがいくつも縫いつけられている。趣味が悪いとまでは言わないが、寝起きの目には少々うるさく、長いこと落ち着いた色合いの部屋で暮らしていた身には、ひどく若々しいものに見えた。
もっとも、これを選んだのは、ほかならぬ私だったはずだ。
大分昔のことであるため、誰に勧められ、何に憧れて買い求めたのかまでは覚えていない。恐らく当時の王都で、このような装飾が流行していたのだろう。若い頃の私は流行という言葉に弱かったから、友人が持っていると聞けば欲しくなり、社交界で評判だと知ればなおさら欲しくなった。自分に似合うかどうかなど二の次で、とにかく人より遅れていると思われることだけは耐えられなかった。
今思えば、実に疲れる生き方である。
私は寝台の上でゆっくりと身を起こし、まず自分の両手を確かめた。
皺がない。
指の節も太くなっておらず、手の甲には薄い血管さえほとんど浮いていない。爪は淡い桃色に磨かれ、長年の家事や旅でできた細かな傷もなく、両手を握って開けば、驚くほど滑らかに動いた。
続いて腰を捻ってみる。
痛まない。
膝も軋まなければ、長く眠った後の足首が固まっていることもなく、背筋を伸ばしても肩甲骨の間に鈍い痛みが走らない。
若い体というものは、随分と便利だったらしい。
寝台から足を下ろして立ち上がると、床が思っていたよりも遠く、体が軽いあまり勢い余って一歩前へ踏み出した。慌てて寝台の柱へ手をつき、どうにか転倒を免れる。
「……危ない。」
口から出た声まで若かった。
鏡を見なくとも、おおよその年齢は分かる。この部屋を使っていた頃であれば、私はまだ十八歳前後のはずだ。
それにしても、朝からこれほど体が動いたというのに、若い頃の私はなぜ昼近くまで寝台に転がっていることが多かったのだろう。人生の持ち時間が永遠に続くとでも思っていたのか。
まったく、もったいない。
もっとも、今は過去の自分へ説教をしている場合ではなかった。
ついつい引き受けてしまった以上、まず状況を確認しなければならない。
さて、この頃には、何がどこまで起きていたのだったか。
大筋だけなら覚えている。
異世界から現れた聖女。
その聖女を虐げ、最後には殺害まで企てた悪役令嬢として処断される、アルヴェーン公爵令嬢クラリッサ。
彼女の婚約者でありながら、聖典の定めに従って聖女を娶らなければならなくなった王太子ユリウス殿下。
そして、その婚姻を強く推し進めた、宰相嫡男にして王太子側近のルシアン・オルブライト。
その周囲に王家と教会があり、さらに私と、もう一人の取り巻きであったマリエル・ノルト伯爵令嬢がいた。
一体何がどう間違っていたのかは、分からない。
けれど、結果だけは知っている。
私が一度目の人生を生きた世界では、王太子殿下とクラリッサは結ばれなかった。
聖女も幸福にはならなかった。
ルシアンも消えた。
王家も壊れ、国も後に滅んだ。
そしてどういう理屈なのか、さらにその先、百年ほど後には世界そのものまで滅びることになるのだという。
それを告げたのは、死んだ後に会った神だった。
神、と呼ぶには、いささか頼りなさすぎる存在ではあったが。
私は寝台を離れ、部屋の隅に置かれた書き物机へ向かった。
まずは覚えていることをすべて書き出し、現在の状況と照合する。
記憶だけを頼りに動けば、必ず細部を取り違える。人の一生を左右する事柄において、たしかそうだったはず、という曖昧な認識ほど役に立たないものはない。
一番上の引き出しを開けた瞬間、私は眉をひそめた。
扇。
髪飾り。
開封したままの香油。
片方だけの手袋。
何に使うのか分からない細い革紐。
色硝子の首飾りが三本。
封を切っていない手紙が四通。
その下には、当時流行していたらしい恋愛小説が、表紙を曲げた状態で無理やり押し込まれている。
肝心の紙とペンが見当たらない。
「……整理整頓がなっとらん。」
思わず声が出た。
誰かが聞いていれば、妙齢の伯爵令嬢には似つかわしくない物言いだと驚いたかもしれないが、幸い部屋には私しかいない。
私は小物を一つずつ取り出し、机の上へ並べていった。
そもそも、同じような髪飾りをいくつ買えば気が済むのか。色硝子の首飾りも、よく見れば形が少しずつ違うだけで、どれも大して変わらない。使いもしないものを、流行しているという理由だけで手当たり次第に買い集めていたのだろう。
若気の至りというやつか。
この頃の私は、大体いつも他人が羨ましかった。
クラリッサの美貌と身分が羨ましい。王太子殿下から大切にされていることが羨ましい。自分より美しい令嬢が羨ましく、自分より賢い令嬢が羨ましく、両親に愛されている者も、何か一つ秀でたものを持つ者も、満ち足りた顔で笑っている者も羨ましかった。
自分だけが足りないように思えて、自分が嫌いで、かといって努力するより先に他人の欠点を探し、見つければ一時ばかり安心して、そんな自分をまた嫌いになった。
だから、大体いつも何かに腹を立てていた。
もっとも、今も大差ない。
こちらには時間がないというのに、昔の私がこんな有様だからである。
「ペンくらい、分かりやすい場所へ置いておけ。」
引き出しの奥まで手を差し込みながら、過去の自分へ愚痴る。
当然、返事はない。
ここは私の部屋であり、腹を立てている相手も私自身なのだから、返事があった方が困る。
二段目からは、ほとんど使われていない便箋が大量に出てきた。紙はある。ペンがない。三段目には今度こそ筆記具があるかと思えば、なぜか舞踏会で配られた菓子の包み紙と、乾燥して香りの消えた花が入っている。
四段目まで開けたところで、ようやくペン立てを見つけた。
ただし、インク壺は化粧台の下に置かれていた。
「なぜ、別々の場所に置いた。」
若い頃の自分の思考が、まったく理解できない。
今となっては、こんな女がよく無事に暮らしていたものだと思うが、考えてみれば、さほど無事でもなかった。
私は机へ便箋を広げ、見つけ出したペン先を確認してから、インク壺の蓋を開けた。
まず、今日の日付を確かめる。
壁に掛けられた装飾用の暦は、日を改めるたびに使用人が札を差し替える形式のものだった。そこに表示された日付を書き写し、私はしばらくその数字を見つめる。
予想していたより、少し遅い。
いや。
間に合わないほどではない。
「確か、この日……いや、絶対この日だった。」
小さく呟き、便箋の端へ、もう一つの日付を書いた。
二重に線を引く。
ここまでには、必ずすべてを片づける。
神から指定された期限ではない。
私自身が決めた期限である。
理由はともかく、この日だけは動かせない。
何があってもだ。
私は一度ペンを置き、長く息を吐いた。
そう。
私は過去へ戻った。
正確には、一度死んだ後に。
死後に会った頼りない神から聞かされた話によれば、私が死ぬまでに知っていた歴史は、本来予定されていたものから大きく外れてしまっていたらしい。
クラリッサとユリウス殿下は、本来なら結婚するはずだった。
そして、その血筋から後の世に勇者が生まれる。
その勇者がいなければ、百年ほど先に現れる災厄を止める者がおらず、最終的には世界が滅ぶ。
ならば二人を結婚させればよい。
言葉にすれば、それだけの話だった。
問題は、前回の人生において二人が盛大に破局し、クラリッサは悪役令嬢として断罪され、最終的には命を失っていることだ。
聖女も死んだ。
王太子殿下も後を追うように壊れた。
ルシアンもいなくなった。
国まで滅びた。
どう考えても、少し婚約者同士の仲を取り持てば済む程度の話ではない。
そもそも、そこまで未来を戻したいのであれば、なぜクラリッサ本人を戻さないのか。あるいは王太子殿下でも、聖女でもよい。もっと事情を知っている者はいくらでもいたはずだ。
当然、私は神へ尋ねた。
返ってきた答えは、何とも頼りないものだった。
使える状態で残っている魂の中では、私が最も事件に近かったから。
それだけだった。
クラリッサも、王太子殿下も、聖女も、ルシアンも、死ぬまでに受けた精神的な苦痛や死の際の損傷によって、記憶を保ったまま過去へ送り返せるほど魂の形が残っていないらしい。
私は違った。
公爵令嬢の取り巻きとして聖女への殺害未遂事件へ加担したとされ、国外追放となったものの、その後も生きた。
そして寿命を終えた。
そのため、最も近い位置にいた人間の中で、使える状態だった。
実に身も蓋もない。
英雄でも、聖女でも、選ばれし者でもない。
単なる消去法である。
だが、その方がまだ納得はできた。
大層な使命や運命を語られるより、他に使える者がいなかったと言われた方が、こちらとしても変な期待を背負わずに済む。
とはいえ、任されたからにはやるしかない。
この国が滅びる未来も、百年後に世界が滅びる未来も、すでに知ってしまったのだ。
放置して知らぬ顔をできるほど、私は薄情ではない。
そして何より、三か月以内にすべて終わらせなければならない。
私は再びペンを取り、記憶に残る名前と事柄を書き始めた。
王太子ユリウス殿下。
アルヴェーン公爵令嬢クラリッサ。
聖女。
ルシアン・オルブライト。
教会。
国王陛下。
王妃殿下。
聖典。
断罪。
追放。
そして、クラリッサの罪とされた出来事を、思い出せる限りその下へ書き出していく。
「断罪の理由……刑務官は、何と言っていたか。」
聖女の礼装が切り裂かれた。
脅迫状が届けられた。
茶会で毒物が見つかった。
公爵家の紋章が押された封蝋。
公爵令嬢付き侍女を見たという証言。
聖堂での転倒事故。
最後に、殺害未遂。
ほかにも何かあったはずだが、すぐには思い出せない。
当時の私は、それらをクラリッサが行ったものだと思っていた。
正確には、疑問を持たなかった。
クラリッサ本人は否定していた。
けれど、証拠があると言われた。
証人もいた。
教会も、積み重なった証拠から、クラリッサが聖女へ危害を加えたのだと認めた。
王家も最終的にはそれを受け入れた。
ならば、そうなのだろうと。
私は考えることをやめた。
そして彼女の取り巻きであった私もまた、聖女を虐げ、殺害を企てた共犯者として国外へ追放された。
当時は自分の身に降りかかった不幸ばかりを恨んでいたが、今になって振り返れば、奇妙な点はいくらでもある。
まず、公爵家の封蝋が使われた脅迫状。
公爵家ほどの家が、わざわざ自家の紋章を押した手紙で聖女を脅迫するだろうか。
自分が犯人ですと名乗っているようなものではないか。
次に毒物。
聖女の飲み物から見つかったものは、後から聞けば、確実に命を奪える量ではなかったという。
殺すつもりなら中途半端すぎる。
脅すだけなら、なぜわざわざ自分の罪を裏付けるような形で毒を入れる。
公爵令嬢の侍女を見たという証言もおかしい。
最初の話では、たしか「公爵家の色を身につけた女を見た」という程度だった。
それがいつの間にか、
「公爵令嬢の命令を受けた侍女を目撃した」
という話へ変わっていた。
「今思い出しても腹が立つ。」
声に出してから、私は紙の上に短く一本線を引いた。
犯人がいる。
あるいは、黒幕と呼べる存在が。
クラリッサを悪役令嬢として仕立て上げ、聖女への加害者に見せかけた者が、どこかにいた可能性が高い。
一度目の私は、その存在を疑うことすらしなかった。
ならば今回は、事件が起こる前に動けばよい。
礼装が傷つけられるなら、管理者と出入りを記録する。
脅迫状が届くなら、紙と封蝋の出所を追う。
毒物が使われるなら、入手経路を押さえる。
証言が変わるなら、最初の証言を必ず文書として残す。
未来に起きる事件を知っているというのは、それだけでも大きな利点だ。
犯人が誰かは分からなくとも、どこに罠が置かれるかだけは分かる。
そこを監視すればよい。
「まずは黒幕の特定、と。」
便箋の端へ書き込む。
しかし、それだけでは足りない。
仮にクラリッサの無実を証明できたとしても、彼女と王太子殿下が問題なく結婚できるとは限らない。
最大の障害が残っている。
聖典だ。
この国において、教会の権威は非常に強い。
王家でさえ、神の言葉とされる聖典を公然と無視することはできない。信仰の問題だけではなく、王権そのものが神から授けられたという建前で成り立っている以上、王が聖典を否定すれば、自分の正統性まで揺らぐ。
そして現行の聖典には、異世界より聖女が現れた際、
聖女は次代の王と結ばれる。
そのような定めがある。
一度目も、それがすべての始まりだった。
異世界から聖女が現れた。
クラリッサはすでにユリウス殿下の婚約者だった。
しかし教会は、聖典に基づき、王太子殿下と聖女の婚姻を求めた。
王家も抗い切れなかった。
クラリッサは婚約者を奪われる立場となり、その後、聖女への加害が次々と明らかになり、最後には悪役令嬢として断罪された。
これが、一度目の大筋だ。
ところが神は、クラリッサとユリウス殿下が結婚しなければ世界が滅ぶと言った。
聖典は、ユリウス殿下と聖女を結婚させろと言う。
同時には成立しない。
「……おかしい。」
私はペン先を紙へ当てたまま、しばらく考え込んだ。
神が嘘をついている可能性。
なくはない。
だが、わざわざ私を過去へ送り返してまで嘘をつく理由が分からない。
ならば、聖典の方に問題があると考えるべきだろう。
神から授かった最初の文言が、長い年月の中で変化した。
写本の際に意味がずれた。
翻訳や解釈が変わった。
あるいは、どこかの時代の王家か教会が、自分たちに都合のよい形へ書き換えた。
今の段階では、その程度しか考えられない。
「こちらも調べないと駄目か。」
黒幕探しだけでも面倒だというのに、聖典の成立過程まで調べる必要が出てきた。
私は新しい便箋を取り出し、必要になりそうな資料を思いつくまま列挙していく。
王立図書館の聖典写本目録。
大聖堂の保管記録。
歴代聖女の記録。
王家が保管している古い聖典。
地方修道院に残る写本。
教会会議の記録。
歴代聖女の婚姻歴。
公爵家の印章管理簿。
王宮の入退室記録。
聖女付き侍女の勤務表。
書き出しているうちに、紙の半分以上が埋まった。
問題は、私が今のところ何の権限も持たない、一伯爵令嬢にすぎないことだった。
王立図書館の一般閲覧室ならば入れるだろうが、貴重な写本を保管する文書庫へ通してもらえるとは限らない。
大聖堂の内部記録に至っては、教会関係者でもない若い娘が見せてほしいと頼んだところで、丁重に追い返されるのが関の山である。
王宮記録も同様だ。
つまり、協力者が必要になる。
公爵令嬢。
王太子殿下。
宰相家。
場合によっては聖女本人。
誰から手をつけるべきか。
そう考え始めたところで、部屋の扉が控えめに叩かれた。
「お嬢様。お目覚めでございますか?」
若い女の声だった。
懐かしい、と感じるより先に、誰だったかを思い出すための時間が必要になった。
当時、私付きだった侍女。
名前は。
「入ってちょうだい。」
ひとまずそう答えると、扉がゆっくりと開き、淡い茶色の髪を一つにまとめた侍女が、恐る恐る顔をのぞかせた。
その顔を見て、ようやく記憶がつながる。
サンドラ・トリトニー。
若い頃、長く私の身の回りを世話してくれていた侍女だ。
「おはよう、サンドラ。」
「おはようございます、お嬢様。今朝は随分とお早いのですね。」
彼女はそう言いながら部屋へ入り、机の上へ広げられた大量の小物と便箋を見て、分かりやすく目を丸くした。
「何か、お探しでございましたか?」
「ペンをね。」
「ペンでしたら、化粧台の下に。」
「見つけたわ。でも、なぜあそこに置いてあったの?」
「それは以前、お嬢様が、机に置いてあると見栄えが悪いと……。」
過去の私は、見栄えを優先して筆記具を分散させたらしい。
理解できない。
「申し訳ないけれど、今後は机の一番上の引き出しへ入れてちょうだい。紙と予備のインクも同じ場所へ。」
「かしこまりました。」
サンドラは素直に頭を下げたものの、声には僅かな戸惑いが混じっている。
私が自分で引き出しを整理し、筆記具の置き場所について指示を出すことなど、これまでなかったのだろう。
「それから、今日の日程を教えて。」
「午前中は家庭教師の先生がお見えになります。午後からは、アルヴェーン公爵家のお屋敷でお茶会がございます。」
私は思わず顔を上げた。
「クラリッサ様のお屋敷で?」
「はい。いつものように、アルヴェーン公爵令嬢様と、ノルト伯爵令嬢様、それからお嬢様のお三方でございます。」
思いもよらず、最重要人物の名前が早速出てきた。
「お茶会の名目は?」
「名目、でございますか?」
「クラリッサ様から、何か話したいことがあると聞いていない?」
サンドラは少し考えてから、手にしていた予定表へ視線を落とした。
「詳しい内容は伺っておりません。ただ、昨日、公爵家より使者がお見えになり、できる限り予定どおり出席してほしいと、あらためてお言付けがございました。アルヴェーン公爵令嬢様が、お二人へご相談なさりたいことがおありだそうです。」
「そう。」
恐らく、一度目の人生でも同じように茶会が開かれたのだろう。
しかし、記憶があまりにも遠い。
何を話し、誰がどのような顔をしていたのか。
霞がかっているどころか、輪郭すらほとんど残っていない。
覚えているのは、もっと大雑把なことだけだ。
この頃の私は、とにかく怒っていた。
聖女が現れた。
王太子殿下がクラリッサを放って聖女と結婚するかもしれない。
クラリッサが泣く。
マリエルも泣く。
そして私は怒り狂う。
三人で集まっては不満を漏らし、泣き、怒り、それで何かを解決したつもりになっていた。
今になって振り返れば、実に非生産的である。
「まったく。」
思わず呟くと、サンドラが不思議そうに首を傾げた。
「何かございましたか?」
「いいえ。昔の――」
過去の自分たちへ腹を立てている、と言いかけて、口を閉じた。
「今日のお茶会について考えていただけよ。」
「何かお持ちになりますか? 先日購入なさった東方の砂糖菓子がございますが。」
「菓子は公爵家で用意されるでしょう。それより、紙とペンを。」
「お茶会へ、でございますか?」
「ええ。」
「何をお書きになるのでしょう。」
「話の内容を記録するのよ。」
サンドラは、返事を忘れたように私を見つめた。
令嬢同士の私的なお茶会へ筆記具を持ち込み、友人の相談内容を書き留めるなど、過去の私なら考えもしなかったのだろう。
「何が事実で、誰が何を言ったのか、後で分からなくなったら困るでしょう。」
「はあ……。」
「それから、装飾の少ない外出着を用意して。袖の広がっていないものがいいわ。」
「公爵令嬢様とのお茶会でしたら、先日仕立てられた青いドレスがございますが。」
「あれは袖口に飾りが多すぎるでしょう。インクをつけるかもしれないわ。」
「お茶会で、そこまで多くのことをお書きになるのでございますか?」
「恐らくね。」
私は思い出して、サンドラへ向き直った。
「あと、家庭教師の先生には、本日はお休みをいただくと伝えて。」
「お加減がお悪いのでございますか?」
「いいえ。むしろ、とてもよいわ。」
これほど体が軽く、視界が明瞭で、長く歩いても膝が痛まないのだから、加減はよすぎるくらいである。
「公爵家へは、予定より少し早く伺います。馬車を用意してちょうだい。」
「承知いたしました。」
「それと、大きめの鞄を一つ。紙とペン、予備のインクを入れておいて。できれば鍵のかかるものがいいわ。」
「かしこまりました。」
「もう一つ。今日から、私宛てに届いた手紙は、封を切らずにすべて保管してちょうだい。送り主、届いた日時、受け取った者の名前も記録して。」
サンドラは今度こそ、不審そうに私を見た。
「すべて、でございますか?」
「ええ。使用人が口頭で受けた伝言も、誰から、いつ、どのような内容を聞いたのか、可能な範囲で紙に残しておいて。」
「……承知いたしました。」
返事をしたサンドラの顔には、もはや戸惑いを通り越して警戒が浮かんでいる。
それも仕方がない。
昨夜まで流行の髪飾りを欲しがり、誰それのドレスが自分のものより華やかだと愚痴をこぼしていた娘が、目覚めた途端に文書管理について細かな指示を出し始めたのだ。
おかしくなったと思われても無理はない。
「少し、心配なことがあるだけよ。」
サンドラはますます心配そうな顔になった。
余計なことを言ったらしい。
「大切な予定もあるしね。」
私がそう付け加えると、彼女は机の端に書かれた日付へ一瞬目をやった。
「何か、ご予定がおありなのでしょうか?」
「ええ。」
ある。
何よりも優先すべき予定が。
ただし、今ここで説明しても、彼女には理解できないだろう。
そもそも、今説明する必要もない。
まずは目の前の仕事だ。
黒幕の有無を調べる。
クラリッサの断罪を防ぐ。
聖典がどこでどう変わったのか確認する。
ユリウス殿下とクラリッサを、今度こそ本人たちの意思で結婚させる。
そのためには、まずクラリッサ本人が何を知り、何を考え、何を恐れているのかを確認しなければならない。
一度目の私は、彼女の隣で一緒になって怒るばかりで、そんな基本的なことすらろくに聞かなかった。
今度は違う。
泣くなら泣けばよい。
怒るなら怒ればよい。
けれど、その前に事情を整理する。
事実と推測を分ける。
必要なら証拠を集める。
何かを決めるのは、それからだ。
「世界でも救うおつもりですか?」
机の上へ並んだ大量の紙を眺めながら、サンドラが半ば冗談めかして言った。
私は一瞬だけ彼女を見た。
「そうね。」
「え?」
「そのつもりよ。」
サンドラが目を丸くした。
説明するのも面倒だったため、私は便箋を重ね、机の端を揃える。
三か月。
長いようで短い。
調査して、証拠を集め、黒幕を見つけ、教会と王家を納得させ、クラリッサと王太子殿下を結婚させる。
考えれば考えるほど、やることが多い。
できれば、一つずつ向こうの方からやって来てほしいところだ。
そこまで考えて、私は改めてサンドラが告げた今日の予定を思い返した。
クラリッサ・アルヴェーン公爵令嬢。
今回の中心人物。
そして、私が何より先に状況を確認しなければならない相手。
その本人が、今日の午後、自ら相談したいと言って私を呼んでいる。
私は机の上に置いた紙の中から、クラリッサの名を書いた一枚を抜き出した。
少しだけ、気分が軽くなる。
よし。
主要人物の一人目が、早速来た。




