第9話:不合理な産声、あるいは愛という名のノイズ
第9話:不合理な産声、あるいは愛という名のノイズ
治療室の空気が、ガラスの表面を鋭い爪で引き掻いたような、不快な不協和音を立てて震えた。
聖女マリアンの、あの陶器のように滑らかで端正な横顔が、一瞬だけ醜く歪むのを僕は見逃さなかった。彼女が築き上げた「EQ 195」という完璧な調和の檻――その静謐な水面に、僕という「インデックス・ゼロ」が、不純物として混入したのだ。
「……目障りね。本当に、吐き気がするほど」
マリアンの声から、これまでの甘美な湿り気が一瞬で消え失せた。それは、美しく磨かれた医療器具のように無機質で、冷たい響き。彼女はジャンの広い肩から慈しむように添えていた手を離し、ゆっくりと僕に向き直る。その瞳は「慈悲の鏡」と呼ばれ、見る者に「世界で唯一の理解者」だと錯覚させる魔力を持っているけれど、今そこにあるのは、獲物の急所をミリ単位で値踏みする捕食者の、冷酷な光だ。
「セト様、あなたは致命的な勘違いをしているわ。共感とは、低俗な感傷のことではない。相手の脳内の電気信号を読み解き、最も支配しやすい形に再構成してあげる、高度で知的な、神聖な営みなのよ」
彼女が一歩、白磁のタイルを踏みしめるたびに、部屋の温度が物理的に吸い取られていく。僕の頭脳は、彼女の放つ、重力のような精神的圧力に耐えかねて悲鳴を上げていた。IQがゼロの僕には、彼女の言葉の裏にある幾重にも張り巡らされたロジックを理解することはできない。けれど、剥き出しの肌が、逆立つ産毛が、沸騰する魂が、それを「嘘だ」と拒絶している。
「ジャン! 聞こえる!? こんなの、優しさなんかじゃない! ただの……ただの、綺麗な毒なんだ!」
僕はマリアンの放つ威圧を、心臓の鼓動ひとつで押し返し、虚脱したままのジャンに駆け寄った。彼の瞳はまだ焦点が合わず、救いのない暗い深淵を見つめている。
マリアンの「共感の暴力」は、ジャンの魂の最も深いところにある傷口――仲間の身代わりになり、無力さに打ちひしがれたあの夜の泥の匂い――に、心地よい致死量の麻酔を打ち続けている。戦わなければ、もう傷つかなくて済む。思考を止めれば、もう誰の死も見なくていい。そう囁き続け、彼を「生ける死体」として、自身のコレクションに仕立て上げているのだ。
「無駄よ。彼はもう、自分の痛みを愛してしまったの。誰にも邪魔されない、孤独で完璧な聖域に引きこもったのよ。私の抱擁の中でね」
「……孤独で完璧なものなんて、この世界にはないよ、マリアン。もしあるとしたら、それはもう、死んでるってことだ」
僕はジャンの、節くれだった冷え切った大きな手を、自分の両手で包み込んだ。
僕には、彼を癒やす高尚な言葉も、トラウマを外科手術のように消し去る技術もない。でも、ピノが教えてくれた「手触り」なら、痛いほど知っている。
「痛いなら、痛いままでいい。不格好なままでいいんだ。僕が、その痛みを半分持っていく。空っぽな僕なら、君の苦しみをそのまま入れるスペースがあるんだ。計算なんてしなくていいから……!」
その瞬間、僕の「測定不能」な領域から、目に見えない巨大なうねりが溢れ出した。それはマリアンのように「相手を理解し、整理する」ことではなく、ただ「隣で同じだけ震える」という、論理を無視した生命の同調。
一方で、分厚い隔壁の向こう側では、鉄の騎士ドゴーンと偽りの英雄レオンの死闘が、臨界点に達しようとしていた。
「ハァ……ハァ……。しぶてえな、この高級な鉄クズが……!」
レオンは遮光ゴーグルを粉々に砕かれ、剥き出しになった左目から血を流しながらも、指先のダンスを止めない。彼の放つ目に見えない電子の糸が、ドゴーンの最新鋭パーツの隙間に潜り込み、幾何学的な演算エラーを誘発させていた。
「なぜだ……。全知測定の予測によれば、私はお前を1.2秒前に仕留めているはずだ。なぜ、その程度のIQで、私の予測を数ミリずつ超えて動ける!」
ドゴーンの合成音声に、激しい電子ノイズが混じる。彼の鋼鉄の脳内では、かつて捨て去ったはずの、あまりに人間臭い「記憶」がバグとして暴れ回っていた。
効率のために切り捨てた、家族の呼び声。
数字が足りないという無情な理由で見捨てた、幼い娘の、指先の熱。
それらが、レオンの執拗なハッキングによってデジタル化された冷たい思考回路を、内側から「情動の熱」で焼き尽くそうとしている。
「理屈で測れねえのが人間なんだよ、ドゴーン! お前がその重い装甲に閉じ込めたのは、正解じゃねえ。ただの……傷つくのが怖くてたまらねえ、臆病な心だ!」
ドゴーンの巨大な右腕、破砕槌が空を切る。
彼の高性能センサーは、レオンの姿を捉えながらも、その残像に「かつての自分」を投影してしまった。
「ああ……あああ……あああああッ!」
ドゴーンの喉から、機械の合成音ではない、生身の、掠れた咆哮が漏れ出た。それは、あまりに人間臭い、後悔と絶望が入り混じった生命の慟哭。
演算回路がオーバーヒートを起こし、火花を散らしながら、巨躯の騎士はその場に膝をついた。
それと同時に。
治療室のジャンの、止まっていたはずの指が、かすかに動いた。
「……セ、ト……?」
ジャンの声は、ひび割れた大地のように掠れていたけれど、そこには確かな「熱」が戻っていた。
聖女マリアンが、顔を真っ白にして絶叫に近い声を上げ、僕を突き飛ばそうとする。けれど、遅すぎた。
ジャンの瞳に宿ったのは、システムが最も恐れ、嫌い、排除しようとしてきた、あの「不合理な怒り」。
そして。
彼の頬を、一筋の涙が伝い落ちた。
それは、マリアンの磨き上げられた「共感の鏡」を、内側から粉々に粉砕する、生きた人間の感触だった。
「……わりぃな、セト。ちょっと、長すぎる夢を見てたみたいだ」
ジャンが、僕の手を強く、骨が軋むほどの力で握り返した。
その手の平は、驚くほど、生きることを肯定するほどに熱かった。
文明が捨て去った「痛み」という名の救いが、今、この閉ざされた玉座の前で、産声を上げたのだ。




