第10話:白銀の静寂、あるいは共鳴という名の救済
第10話:白銀の静寂、あるいは共鳴という名の救済
ジャンの手の熱さは、単なる生命維持の副産物ではなかった。それは一度凍てついた魂が、システムの弾き出した「正解」を焼き切るために再び脈打ち始めた証。論理の檻を内側から食い破る、不合理で生々しい生命のうねりそのものだった。
「……信じられない。私の調和を、そんな汚らわしい、原始的な感情で汚すなんて」
マリアンの顔から、陶器のように精巧な「聖女の仮面」が完全に剥がれ落ちた。白磁のような肌は屈辱と怒りに赤らみ、その瞳には底知れない濁った憎悪が渦巻いている。彼女にとって、自身のEQ(共感能力)でハックできない心は、管理されるべき秩序を乱す、最も忌むべき「悪性のバグ」に等しいのだ。
ジャンはよろよろと、しかし大地を踏みしめる確かな足取りで立ち上がり、僕の肩を一度だけ、無骨に、強く叩いた。その短く重い感触だけで、彼の中を覆っていたマリアンの霧が晴れたことがわかった。
「マリアンと言ったか。あんたの用意した『幸せな夢』ってのは、俺にはちっとも似合わねえ。俺の仲間は、もっと泥臭くて、喧嘩っ早くて、数字じゃ測れねえ馬鹿野郎ばかりなんだよ。……悪いが、その綺麗な温室は、他を当たってくれ」
ジャンの背後で、隔壁の向こうにいたレオンが合流する。砕けた遮光ゴーグルの下、血塗れの顔で不敵に笑う彼は、膝をついたまま再起動できずにいるドゴーンを顎で指し示した。
「計算終了だ、聖女様。あんたの自慢の騎士様は、自分の過去という名の未処理データに食いつぶされたよ。……さて、次はあんたの番かな? 俺のデバイスには、まだあんたの『聖域』を解体する空き容量があるぜ」
レオンがハッキングデバイスを構え、指先を滑らせようとしたその時だった。
背筋を直接氷で撫でるような、不自然な、そして暴力的なまでの「静寂」が、冷却塔の広大な空間を支配した。巨大なファンの駆動音も、排気塔の絶え間ない唸りも、僕たちの荒い呼吸音さえもが、何かに塗りつぶされるように、物理的に消えていく。
「……うるさい。世界の端っこで、誰かが叫んでいるような音が、絶えず聞こえる」
部屋の隅、濃密な影の中から、その男は音もなく滲み出した。
使い古された白い手袋。返り血を幾度も漂白したせいで繊維がけば立ち、人工の光の下で幽霊のように青白く発光している。
暗殺者ジジ。
彼は感情という機能を摩耗しきった瞳で、僕たちを、というよりは、この空間に澱のように充満する「感情の振動」を、ひどく不快そうに見据えていた。
「ジジ! 遅いのよ、何をしてたの!」
マリアンが余裕を失い、金切り声を上げる。しかし、ジジは彼女を一瞥もせず、ただ左胸を強く押さえて、肺を吐き出すかのように激しく咳き込んだ。彼の肉体は「共感覚」という、あまりに鋭敏すぎる呪いによって、周囲の人間が発する痛みを、自分の神経細胞に直接転写してしまう。
「……マリアン、黙れ。離れろ。この場所は、僕にとって『痛み』が多すぎる。ジャンの野性的な怒り、ドゴーンの錆びついた欲望、レオンの冷たい焦燥……。それらが鋭利なナイフになって、僕の心臓を、一刻一刻と刻んでいる」
ジジが鞘から抜き放った剣は、周囲の光をすべて飲み込むほどに黒く、そして恐ろしく研ぎ澄まされていた。彼にとって殺人は、慈悲でも使命でもない。自分の中に流れ込んでくる他者の苦痛という「耐え難いノイズ」を止めるため、その発信源を物理的に絶つという、極めて切実で孤独な防衛本能だ。
「セト、逃げろ! こいつは今までの連中とは次元が違う!」
ジャンが叫び、僕の前に盾となって立ちはだかる。
だが、ジジの動きは論理(IQ)や訓練を超え、痛みを回避しようとする生物学的な直感に基づいていた。
一閃。
鋼が空気を切り裂く音さえ置き去りにして、刃が走る。
ジャンの胸元が鮮やかに裂け、熱い血が飛沫となって舞った。ジジはジャンの苦痛が自分に転写されるのを分かっていながら、それを最小限に抑えるための「最短経路」で、致命の刃を正確に突き出していく。
「ぐっ……あ……ッ!」
「ジャン!」
膝をつくジャン。それを見た瞬間、僕の胸の奥に、かつてない激しい衝撃が走った。
痛い。僕が斬られたわけでもないのに、胸の奥が、喉の奥が、焼け付くように熱い。
これが、ジジの言っている「痛み」なのか? 相手の苦しみが、自分の輪郭を超えて入り込んでくる、この暴力的な感覚。
僕は、ジジとジャンの間に割って入った。武器など、何一つ持っていない。ただ、僕の「インデックス・ゼロ」という、空っぽで無価値なはずの器を、ジジの絶望的な共感覚に向けて、最大限に大きく開いた。
「やめてくれ、ジジ! あなたが誰かを傷つけるたび、あなた自身が一番、その刃で傷ついているじゃないか!」
ジジの黒い剣先が、僕の喉元、皮膚がわずかに沈む距離で、ピタリと止まった。
彼の、感情を殺していたはずの瞳が、激しい驚愕に大きく見開かれる。
ジジの神経系に流れ込んでいったのは、彼が予測していた憎しみでも、死への恐怖でもなかった。
それは、底なしの、しかし不思議なほどに温かな「受容」。
世界から測定不能と切り捨てられ、数字を奪われたセトという無名の少年の、それでも世界を愛し、救いたいと願うあまりに純粋な、しかしそれゆえに回避することのできない巨大な「献身という名の苦悩」の奔流。
「……なんだ、これは……。なぜ、こんなにも……重いんだ……」
ジジの、白い手袋に包まれた手が、目に見えて激しく震え始めた。
彼がこれまで殺して、その接続を絶ってきた「社会の歯車」たちの小さな痛みとは、次元が違う。世界全体の不条理を一人で背負い込もうとする、測定不能な少年の「心の質量」。
「あ……ああ、ああああッ!」
ジジは内側から湧き上がる衝動に耐えきれず、叫びながら黒い剣を床に落とした。
鋼鉄がタイルを叩く硬質な音が響く中、彼の瞳から、大粒の涙が溢れ出す。
それは他人の痛みへの反射的な共鳴ではない。自分と同じように、いや、自分以上に世界と無防備に繋がって苦しんでいる存在を見つけたことへの、魂の深い、深い震えだった。
白銀の死神と呼ばれた男が、その場に崩れ落ち、自らの肩を抱いて咽び泣く。
マリアンが絶句し、レオンが息を呑み、沈黙が再び空間を支配した。
だが、その沈黙は先ほどとは違っていた。今度は、冷却塔の冷たい底を、毛布のように優しく包み込む「共感」という名の静寂だった。




