第11話:痛みの座標、あるいは魂を繋ぐ蝶々結び
第11話:痛みの座標、あるいは魂を繋ぐ蝶々結び
静寂が、冷却塔の底を、毛布のように優しく包み込んだ。
それは、数字がすべてを支配するこの「ロゴス・ノア」においては、極めて異質な、そして美しいほどに不合理な沈黙だった。
白銀の死神と呼ばれた暗殺者ジジは、その場に崩れ落ち、自らの肩を抱いて咽び泣いている。他者の苦痛を自らの神経細胞に転写してしまう「共感覚」という呪いは、僕の「インデックス・ゼロ」という空っぽの器に触れた瞬間、反転した。
憎しみも恐怖も持たない僕の空虚さは、ジジにとっては、生まれて初めて訪れた「無音の聖域」だったに違いない。
「……セト、お前、何を……」
胸から血を流しながら、ジャンが掠れた声で僕を呼ぶ。
僕は返事をせず、ジジの震える肩にそっと手を置いた。使い古された白い手袋が、僕の体温に触れてわずかに弛む。漂白されすぎた繊維の、ガサついた手触りが指先に伝わった。
「もういいんだ、ジジ。あなたはもう、独りで叫ばなくていい」
ジジは顔を上げ、涙に濡れた瞳で僕を見つめた。その瞳は、これまで殺してきた「歯車」たちの絶望を映し続けてきた鏡。けれど今、そこにはただの、傷つきやすい一人の青年がいた。
「どうして……。君の心には、何もない。数字も、計算も、企みも……。ただ、冷たい冬の湖のような、静かな祈りだけがある。それは……殺すことよりも、ずっと痛い……」
「痛いなら、痛いままでいいよ。僕が、君の痛みの座標を、半分預かるから」
僕はピノに教わった通りに笑ってみせた。数字で測れる「効率的な微笑」ではなく、どこか不格好で、頼りない、人間臭い笑みを。
その光景を見ていた聖女マリアンが、ヒステリックな声を上げて後ずさる。
「あり得ないわ。私のEQ(共感)でも解けなかった暗殺者の心を、そんな……数値化もできない『無』が、書き換えるなんて! 演算エラーよ。こんなの、ただの集団狂気だわ!」
「バグ上等だよ、聖女様」
レオンが、砕けた遮光ゴーグルの破片を払い落としながら、僕たちの隣へ歩み寄った。彼は傷だらけの指で、空中にホログラムの数式を展開する。
「いいか。アモンが作ったこの世界の数式には、元から致命的な欠落があったんだ。それは『不合理な愛』という名の、計算不能な変数だ。あんたの言うEQは、ただの心理操作のテクニックに過ぎない。だが……」
レオンは、泣き崩れるジジと、彼を支える僕とジャンを指差した。
「こいつらが今やってるのは、演算じゃない。共鳴だ。スピーカーがハウリングを起こして回路を焼き切るように、こいつらの純粋さが、帝国の論理を内側からショートさせてるんだよ」
レオンの言葉が終わるか終わらないかのうちに、アイアン・アイの深層から、重厚な地響きが轟いた。
警告アラートが赤く点滅し、壁面のモニターにはアモンが始動させた「最終最適化計画」のカウントダウンが表示される。IQ100未満の人間を「資源の無駄」として処理し、人類を一つの純粋な数式へと収束させる、死の舞踏が始まろうとしていた。
「……セト。兄さんは、本気だ」
僕は立ち上がった。ジジが、震える手で僕の服の裾を掴む。
「行くのか、セト。君は……あの数式の魔王を、止めるつもりなのか」
「止めるんじゃない。兄さんと、話しに行くんだ。数字を介さない、不格好な言葉で」
僕は腰のポーチから、一本の古びた紐を取り出した。ピノが、スラムを去る僕に渡してくれたものだ。
「ジジ。あなたのその手袋、もうボロボロだね」
僕は、ジジの左手の手首に、その紐を巻きつけた。
「……何をするつもりだ?」
「蝶々結びだよ。計算で結ぶな、感覚で締めろって、ピノが言ってた」
僕は不器用な指先を動かし、ジジの腕と、僕の左腕を一本の紐で繋いだ。
「これは、いつでも解ける。逃げたくなったら、解けばいい。でも……繋がっている間は、僕の『空っぽ』が君の『痛み』を吸い取る。理屈じゃない、約束だ」
ジジは、自分の手首に結ばれた不格好な輪っかを、信じられないものを見るように見つめていた。やがて、彼はゆっくりと、しかし確実に、血に汚れた黒い剣を鞘に収めた。
「……不合理だ。あきれるほどに。だが……このノイズだらけの世界で、君の紐だけが、唯一の安定した波形に見える」
ジジは立ち上がり、僕と背中を合わせた。暗殺者の鋭利な殺気は、今は僕を守るための静かな壁となっていた。
「ジャン。歩けるか?」
僕は、胸を押さえて荒い息を吐くジャンに手を貸した。ジャンは苦笑しながら、僕の肩を借りる。
「おうよ。お前がその変な紐を解かねえ限り、俺も地獄の底まで付き合ってやるぜ。数字じゃねえ、意地なんだよ、男の価値は」
僕、ジャン、ジジ。
IQもEQもバラバラな、システムから弾き出された「異物」たちが、一本の不格好な紐を介して、一つの意思へと収束していく。
レオンが先頭に立ち、アイアン・アイの最上層へと続くエレベーターのハッチをこじ開けた。
「さあ、ショータイムだ。論理の檻を壊しに行こうぜ。魔王様が待ちくたびれてる」
崩壊する世界の中で、僕は繋がれた二人の手を、さらに強く握りしめた。
エレベーターが上昇を開始する。その振動は、僕たちの心臓の鼓動と重なっていた。
文明が切り捨てた「無駄な感情」が、今、帝国の心臓部へと突き刺さる。
兄さん、見ていてくれ。
あなたの数式が、一番嫌っていた「バグ」が、今からあなたに最高の答えを突きつけに行くから。




