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インデックスゼロの魔王  作者: あめたす


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第8話:不協和音の演算

第8話:不協和音の演算


 僕の叫びは、冷え切った基幹冷却塔の空気に吸い込まれ、むなしく霧散した。

 目の前に立つドゴーンという巨躯の機械騎士は、彫刻のようにピクリとも動かない。彼の網膜に映る僕の数値は、依然として「ゼロ」という空虚な円を描き続けている。彼にとって、僕の言葉は、高度に最適化された演算回路を汚す致命的なノイズに過ぎないのだろう。


「理屈ではない、か。……それがお前の、そしてスラムのゴミどもが好んで口にする敗北者の言い訳だ、セト様」


 ドゴーンの右腕が、油圧の低い唸り声を上げながら、複雑な変形を開始する。重厚な超硬合金の装甲が火花を散らして噛み合い、一撃で城門をも砕く巨大な破砕槌クラッシャーが形成された。

 彼はかつて、IQの不足によって家族を失った。救える命を数字で選別され、愛する者の体温が冷えていくのを、ただの「統計的な損失」として見送るしかなかった男。その無力感に耐えきれず、彼は自らの血を抜き、涙を捨て、冷徹な論理のパーツを肉体に注ぎ込んだのだ。喪失の穴を、鋼鉄の質量で埋めるために。


「私は、もう二度と『足りない』という理由で何かを奪われたくはない。この鋼鉄の体、この140を超える演算能力こそが、私を惨めな過去から切り離す唯一の鎖だ。お前のその『ゼロ』という不確定要素を、今ここで完膚なきまでに叩き潰し、私の論理(正解)を証明する!」


「……ドゴーン、お前のその鎖は、自分の心まで縛り付けてるぜ。がんじがらめで、窒息しそうじゃねえか」


 背後でレオンが遮光ゴーグルを指で跳ね上げた。彼の瞳には、本来の知性を象徴する鋭い光が宿っている。彼は懐の古いコインを宙に放り投げた。銀色の軌跡が、無機質な空間を切り裂く。


「おい、ゼロ。ここは俺が時間を稼ぐ。お前はピノと一緒に奥へ行け。ジャンの熱気が、この先の隔壁の向こうから漏れ聞こえてやがる。死にぞこないの咆哮がな」


「レオン、でも……お前一人じゃ……」


「行け! 俺の計算じゃ、お前のそのノロマな足で立ち止まってる方が、生存確率をコンマ数パーセント下げちまうんだよ。無駄な計算をさせるな」


 レオンはそう毒づきながら、腰のデバイスから無数の電子の糸を放出した。座標を瞬時に書き換え、ドゴーンのセンサーを狂わせる「偽装ノイズ」の結界を張る。IQ160の超天才が、あえて泥臭い工作員として振る舞うその背中に、僕は短く一礼して駆け出した。

 冷却塔の最深部。温度が急激に下がり、吐く息が白く凍りつく。心臓の鼓動だけが、不規則なドラムのように耳の奥で鳴り響いていた。

 重厚な隔壁の前に辿り着いたとき、僕は異様な気配に肌を焼かれるような感覚を覚えた。

 そこは、完全な無音だった。

 けれど、ただの無音ではない。まるで、周囲のあらゆる感情の温度を吸い取って、凍てつかせたような、真空の静寂。

 隔壁が重々しい音を立てて開き、その奥に広がっていたのは、白磁のタイルに囲まれた、残酷なまでに美しい「治療室」だった。

 中心に置かれた椅子に、ジャンが座っていた。

 あの、スラムで仲間のために泥を啜り、雨に濡れながら音痴な歌を口ずさんでいた、太陽のような男。

 今のジャンには、その熱がない。

 虚ろな目で宙を見つめ、その表情からは一切の憤りも、意志も、色彩も消え失せていた。まるで魂だけをどこか遠い場所へ置き忘れてきた、精巧な蝋人形のように。

 そして、彼の背後に立って、慈しむようにその肩を抱いている女。


「……あら、いらっしゃい。アモン様の可愛い弟さん。随分と不格好な格好で辿り着いたのね」


 聖女マリアン。

 彼女が微笑むたびに、部屋の中に漂う「毒のような優しさ」が、芳香を放ちながら僕の肺を締め付ける。彼女のEQ195という驚異的な共感力は、他者を癒やすためのものではない。相手の欠落した心の隙間に、「あなたは今のままでいいのよ、もう頑張らなくていい」という猛毒の肯定を流し込み、成長や再起の意志を根底から腐らせる精神のスカベンジャー。


「ジャン……? 起きてくれ、ジャン!」


 僕が喉を枯らして声をかけても、ジャンは微動だにしない。彼の耳には、マリアンが囁き続ける「逃げてもいい、戦わなくていい、あなたは十分傷ついた。もう誰かのために血を流す必要はないのよ」という甘い腐臭を放つ言葉だけが届いているのだ。


「無駄よ、セト様。この方は今、自分の不幸という名の温かい毛布にくるまって、心地よい永遠の眠りにつこうとしているの。誰も傷つかない、誰も怒らない……。数値の海で溺れるより、ずっと幸せだと思わない? ここは数字のない、私の愛という名のゆりかごよ」


 マリアンの白く細い指が、ジャンの頬をなぞる。その肌は、触れただけで凍傷になりそうなほど冷たかった。


「……違う。ジャンは、そんなこと望んでない。彼は、痛みと一緒に笑うことを選んだ男だ」


 僕は自分の胸の「ゼロ」が、かつてないほど激しく、波打つのを感じた。

 マリアンの共感は、相手を自分に依存させるための「所有」であり、支配だ。

 

 けれど、僕が知っている「共に苦しむ」という力は、そんな綺麗なものじゃない。

 もっと不格好で、泥臭くて、出口の見えない答えを探し続けるような、ピノの教え子の「蝶々結び」のように解けやすくて、でも確かに繋がっている、痛みの共有なんだ。


「ジャン、思い出して! あなたが歌っていた、あの下手くそで、でも温かい歌を! 僕たちが聖域で誓った、数字に魂を売らないっていう約束を!」


 僕は絶叫しながら、マリアンの放つ共感結界の中へと真っ向から踏み込んだ。

 脳が割れるような頭痛が襲う。マリアンから流れ込む、過剰で「嘘の慈愛」が、僕の空っぽの器を無理やり汚染しようとする。


「あら……? 私の共感が、吸い込まれていく……?」


 マリアンの余裕に満ちた顔が、初めて驚愕に歪んだ。

 数字を持たない僕の「ゼロ」が、マリアンの計算し尽くされた共感(EQ)をただひたすらに飲み込み、その奥の奥に隠された、彼女自身の「虚無」に触れた瞬間。

 治療室の空気が、鋭い不協和音を立てて弾けた。

 マリアンの瞳に、初めて「恐怖」という名の人間らしい色が宿ったのを、僕は見逃さなかった。

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