第23話:償いの手触り、あるいは不格好な結び目
第23話:償いの手触り、あるいは不格好な結び目
瓦礫の隙間から差し込む朝の光は、あまりに残酷で、そしてどうしようもなく美しかった。
アイアン・アイの心臓が止まり、世界を縛り上げていた「正解」という名の呪縛が解けた。僕たちは、崩れかけた展望デッキの縁に座り、変わり果てた帝国の姿を眺めていた。
眼下では、銀色の幾何学模様を描いていた中央統治府が、ただの鉄の塊へと成り果てている。その向こう側、かつては境界線で厳格に区切られていたスラム「リムボ」から、小さな、けれど確かな土煙が上がっていた。人々が動き始めている。数字という杖を奪われ、よろめきながらも、自分の足で。
「……静かだね、兄さん」
僕は、隣で深く腰を下ろしているアモンの横顔を見た。
兄さんの身体からは、あの神々しいまでの威圧感は消え失せ、ただの傷だらけの青年がそこにいた。彼が自ら「魔王」という変数に置き換え、背負い続けてきた「人類存続」という名の巨大な数式は、今、僕たちが結んだ不格好な蝶々結びによって、ただの思い出へと変わったのだ。
「ああ、耳鳴りが止んだ。生まれて初めて、世界が『ノイズ』を立てていない。……いや、違うな。世界そのものがノイズでできていることに、ようやく気づけただけか」
アモンは、自身の網膜ディスプレイが消失した瞳で、眩しそうに空を仰いだ。
IQ210という過剰なまでの知性は、もう彼を苦しめることはない。計算すべき未来が消え、ただ「今、この瞬間の眩しさ」だけが彼を支配している。
「なあ、セト。僕はこれから、お前に討たれるはずだった。憎しみの化身として死に、お前という『無垢なる英雄』を誕生させる。それが私の書いた、最後の最適解だった」
「知ってるよ。でも、兄さんの計算は外れた。僕は英雄になんてならないし、兄さんは死なせない。……一緒に、生臭い現実を歩いてもらうんだ」
僕は、ポケットの中でくしゃくしゃになったあの紐を、もう一度兄さんの手に握らせた。
「ピノが言ってたんだ。蝶々結びは、いつでも解けるけど、歩いている間は決して離れない、自由と信頼の象徴だって」
アモンはその紐をじっと見つめ、それから震える手で、僕の細い指を握りしめた。
彼の目から、透明な液体が一筋、頬を伝って零れ落ちた。それはIQの演算結果でも、EQによる共感の武器でもない。ただの、名前のつかない「痛み」の欠片だった。
「理屈じゃねえんだよ、兄貴」
背後から、低くて温かい声が響いた。
ジャンが、ドゴーンの無骨な肩を借りながら、よろよろと歩み寄ってくる。ジャンの顔は痣だらけで、ドゴーンの機械の腕からは火花が散っている。けれど、二人の顔には、数字では決して測れない晴れやかな笑みが浮かんでいた。
「あんたがどれだけ賢くて、どれだけ悪いことをしたのか、俺にはよく分からねえ。でもよ、あんたが今、腹を空かせてて、弟と生きたいって思ってるなら……それだけで十分だ。俺たちは、そのために戦ったんだからな」
ドゴーンが、バグの混じった合成音声で応じる。
「……計算上、アモン様の生存は帝国の再建を遅らせる。だが、私の……私の『バグ』が、あんたを殺すなと叫んでる。効率? もう、そんなものはシリンダー・シティのゴミ捨て場に置いてきた」
兄さんは、彼ら一人ひとりの顔を、記憶に刻み込むように見つめ返した。かつて彼が「歯車」や「ノイズ」として切り捨ててきた命。その熱量が、今、彼の氷のような心を内側から溶かしていく。
「……不合理だ。全くだ。だが……」
アモンはそこで言葉を切り、ゆっくりと、折れそうなほど細い足で立ち上がった。
僕が貸そうとした肩を、彼は静かに、けれど毅然と拒んだ。
「ジャン、ドゴーン。君たちの寛容に甘えるほど、私は厚顔ではない。……私は、あまりに多くの命を数字として扱い、消去してきた。死んで償うのは簡単だ。だが、それでは『計算の放棄』でしかない」
アモンは展望デッキの先端へと歩みを進めた。そこからは、アイアン・アイの広場に集まった群衆の姿が見える。彼らは、昨日までの圧制者を見上げ、怒りと戸惑いの声を上げていた。
「アモン様……何を」
ドゴーンが電子音を軋ませる。アモンは迷わず、腰に差していた支配者の証である短剣を抜き放つと、迷いなく自身の左手の掌を深く切り裂いた。
「この痛みは、私が奪った命の数には遠く及ばない。だが、これからは数字ではなく、この肉体の痛みと、失った者たちの名前を刻みながら生きていく。……民よ! 私は生きる! 卑怯者と呼ばれ、石を投げられようとも、君たちが作り直すこの『不自由な世界』の底辺で、泥にまみれて償い続ける!」
広場から、凄まじい怒号が沸き上がった。それは歓喜などではなく、剥き出しの憎悪と、やり場のない悲しみのうねりだ。
「兄さん……」
僕は兄さんの隣に並び、彼の血に濡れた左手を、僕の右手で強く握りしめた。傷口から流れる熱い血が、僕の掌にも移り、じわりと染み込んでいく。
「セト、離せ。これは私の業だ。お前が汚れる必要はない」
「嫌だよ。二人で間違えようって言ったでしょ。兄さんの罪が消えないなら、半分は僕が持つ。兄さんが投げられる石の半分は、僕が受ける。それが、僕の選んだ『蝶々結び』なんだ」
アモンは絶句し、それから壊れた防波堤のように、僕の肩で嗚咽を漏らした。
冷徹な魔王はもういない。
そこにいるのは、あまりに重すぎる荷物を背負い、それでも弟と手を取り合って一歩を踏み出そうとする、ただの不器用な男だった。
ジャンが鼻をすすり、笑いながら言った。
「へっ、最高に格好悪いぜ。……行こうか。地獄の散歩道の始まりだ」
世界はこれから、もっと複雑で、もっとままならない場所になるだろう。
数字による統治が消えた後の大地には、きっとまた新たな争いや、理解し合えない絶望が芽吹く。
けれど、僕たちは知っている。
隣にいる誰かの痛みを「自分と同じ痛み」として素手で掴むことができれば、その瞬間だけは、どんな完璧な数式も、冷酷な神の視線も、僕たちを縛ることはできないのだ。
「行こう、兄さん。みんなが待ってる。……僕たちの、本当の人生に」
僕は、血と埃で汚れたアモンの手を、もう一度強く引いた。
不器用で、解けやすくて、それでも決して離れない僕たちの蝶々結びを信じて。
僕たちは、崩れゆく帝国の頂から、怒りと希望が渦巻く「人間たちの世界」へと、ゆっくりと歩み出した。




