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インデックスゼロの魔王  作者: あめたす


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第22話:不合理な連鎖、色彩の祈り

第22話:不合理な連鎖、色彩の祈り


 差し出した僕の手を、兄さんはひどく躊躇うように見つめていた。

 その指先は微かに、けれど止まることを忘れたかのように震え、あんなに完璧だった白磁の肌には、返り血と煤が醜く、しかし人間臭くこびりついている。

 けれど、僕には今の兄さんの方が、ずっと綺麗に見えた。

 氷の彫刻が溶け、内側に秘めていた熱い血が噴き出したような。

 ようやく数式の外側へ、僕と同じ泥だらけの地平へと降りてきてくれたのだから。


「……セト。僕の手を取れば、お前も『悪魔』の共犯者になる。返却できない罪の目録を、一緒に背負うことになるんだぞ。それでもいいのか」


「いいよ。二人で間違えようって、さっき決めたんだ。正しさに殺されるくらいなら、僕は兄さんと一緒に間違えていたい」


 兄さんは小さく、喉の奥で自嘲するように笑うと、僕の手を折れんばかりの力で握り返した。その掌の熱さに、僕は胸が焼き切れるような思いがする。僕たちは15歳のあの誕生日に、冷たい判定結果ではなく、この生々しい温もりを交換すべきだったのだ。

 頭上では、マリアンの呪縛から解き放たれたはずのホログラムが、主を失って暴走を始めていた。空を埋め尽くす幾何学的な数式は、赤黒い、内出血のような光を放ちながら、世界を飲み込む事象の地平イベント・ホライゾンのように渦巻いている。


「アモン様、セト! 感傷に浸ってる暇はねえ、上が……『空』が降ってきやがるぜ!」


 ジャンの、野性味溢れる咆哮と同時に、天井の残骸が派手に爆散した。

 そこには、いつの間にか一人の男が立っていた。

 煤けたタキシードのような服を纏い、古いモノクルを悠然と磨きながら、退屈そうに瓦礫の山に腰を下ろしている。観測者、ノーティア。

 彼がそのレンズを眼に嵌めた瞬間、周囲の空間が古いビデオテープの乱れのように、激しく、不快なノイズを伴って歪んだ。


「おやおや。論理(IQ)が敗北し、共感(EQ)が自壊した。実に美しい、極上の『綻び』だ。これほど芳醇で上質な絶望のスープは、パノプティコンが始まって以来だよ」


 ノーティアは、壊れた玩具の部品を並べる子供のような、無垢で残酷な微笑を浮かべた。


「だが、計算式が途中で止まるのは美しくない。アモン君、君が投げ出した『最終測定』は、私が代わりに完結させてあげよう。人類という、計算を乱し、美学を損なう救いようのない『誤差』――その全てをゼロにするためにね」


「……させない。その式は、僕が始めた。そして僕が、一人の人間として終わらせる」


 アモンが、僕の肩を借りてよろめきながら立ち上がる。彼の瞳には、世界を睥睨する支配者としての冷徹な光ではなく、一人の男としての、静かな、けれど地熱のように燃える意志が宿っていた。


「セト。あの数式の中心、最も密度が高まっている『特異点』を見てくれ。あそこが、父アルドが遺したシステムの心臓部……いや、墓標だ。論理で解析しても、あそこには永久に到達できない。あそこは……『意味』のない場所だからだ」


「意味がない……? どういうことだよ、兄さん」


「ああ。父さんは、世界を単純化し、制御可能なものへと作り替える過程で、どうしても消し去ることができなかった『愛』という名の巨大なバグを、あそこに隔離したんだ。僕たちが立ち向かうべきは、世界最強の理論じゃない。父さんが最後の最後で捨てきれなかった、『未練』という名の生命のうねりそのものなんだ」


 僕たちは、ノーティアがモノクルから放つ空間の歪みを、泥の中を進むように掻き分け、極彩色に変色した数式の渦中へと歩を進めた。

 そこは、音も光も、そして一桁の数字さえも意味を剥奪される、深海のような沈黙の領域だった。

 渦の中心で、一つの古い、錆びついた機械が、まるで心臓のようにドク、ドクと脈動している。それが聖王アルドの、そしてこの欺瞞に満ちた世界の、本当の「心臓コア」だった。


「最後の一行は、もう決まっている。全人類の存在消去。それがパノプティコンという孤独な神が導き出した、唯一にして『究極の平和』の答えだよ」


 ノーティアがモノクル越しに、退屈そうに指を鳴らす。

 無数の光の矢が、数式の鋭利な刃となって僕たちを襲う。それは「死こそが救済である」という、あまりに正しく、あまりに冷酷な正論の雨だった。


「セト、紐を!」


 兄さんの鋭い声に、僕は迷わず、ポケットに忍ばせていたあの不格好な紐を解き、兄さんの手に半分を託した。ピノの使い古した、煤けた匂いのする紐。


「計算で結ぶな、感覚で締めろ……。兄さん、理屈じゃないんだ! 僕がここにいて、兄さんが隣で息をしている。その不合理な事実だけが、この冷たい式を壊す唯一の回答だ!」


 僕たちは二人で、その紐を心臓部のレバーに絡ませた。

 IQ210の至高の論理が、EQ0の空っぽな直感と重なり合い、火花を散らす。

 兄さんが瞬時に導き出す「最適解」と、僕が泥まみれの手で掴み取る「体温」。

 正反対の両極にある二つの知性が、不格好な「蝶々結び」を介して、初めて一つの「生命」として拍動を始めた。


「理不尽なまま、愛してやるよ。この、美しくて救いようのない、泥だらけの世界を!」


 僕と兄さんが同時に紐を引き絞った瞬間、心臓部の奥底から、網膜を焼くような強烈な「色彩」が溢れ出した。それは0でも1でもない、名前のつかない野蛮な感情の奔流。

 

 数式が硝子細工のように砕け、虚飾のホログラムが霧散していく。

 ノーティアのモノクルに、くっきりと一本のひびが入った。


「……ほう。数式を解くのではなく、式そのものを『祈り』というノイズで上書きしたか。不合理だね。実に……不合理で、最高に美味しいよ」


 ノーティアは満足げに、霧の中へと姿を消した。その去り際は、煙に巻かれたように実体がない。

 後に残されたのは、崩れ落ちたアイアン・アイの壮大な廃墟と、そこから見える、見たこともないほど鮮やかな、血の通った、騒がしい朝焼けだった。


「……終わったんだね、兄さん」


「いや、始まったんだよ、セト。計算できない、ままならない、面倒で愛おしい明日が」


 兄さんは僕の頭を、そっと、戸惑うような不器用な手つきで撫でた。

 その手は、もう震えていなかった。

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