第21話:神への反逆、人への祈り
第21話:神への反逆、人への祈り
玉座の間を支配していた精密な静寂は、今や電子の断末魔によって無惨に掻き消されていた。マリアンの瞳は、精巧な硝子細工が内側から腐敗していくような、悍ましい美しさを湛えている。彼女が手に持つ、血管のように脈動する異形のデバイスから、電子の羽虫が這い出すような湿ったノイズが漏れ、僕の視界を泥色に侵食していく。
「セト、逃げろ……っ! そいつに心を覗かせるな」
床に倒れ伏したアモンが、肺の奥を削るような掠れた声で僕を呼ぶ。けれど、僕の足は、冷徹な石造りの床に一本の杭で打ち付けられたように動かなかった。マリアンの背後から溢れ出す「共感」の質量が、物理的な重力となって僕の華奢な肩を、容赦なく押し潰す。
「いいのよ、アモン様。この子は私と同じ。内側に何も持たない、空っぽの器……。だからこそ、最高に美しく、丁寧に壊してあげられるわ」
彼女が一歩、こちらへ距離を詰めるたびに、僕の脳裏には「見たくなかった風景」が強制的に、鮮明なカラーで投影される。
それは、15歳の誕生日に父・アルドから投げかけられた、絶対的な零度を宿した無関心の眼差し。兄さんに放逐されたあの日、スラムの泥水の中で感じた、世界という巨大な名簿から自分の名前が消去されたような疎外感。僕が「インデックス・ゼロ」として、何者でもなく生きてきた、その全ての空白に、マリアンの放つ「毒」が、音もなく流し込まれていく。
「あなたは、本当は寂しかったのよね? 愛されたかった。数字なんてなくても、ここにいていいよって、誰かに首を抱きしめてほしかった……。そうでしょう?」
鼓膜のすぐ傍で囁かれる言葉は、まるで上質な羽毛のように柔らかく、けれど触れた先から僕の精神の表皮を腐らせていく。彼女のEQは、もはや切っ先を持つ武器ですらなかった。それは相手の心の欠損――自分でも気づかないふりをしていた「穴」――を見つけ出し、そこに「救い」という名の依存を植え付ける、世界で最も慈悲深い処刑なのだ。
「……違う」
僕は震える指先で、ポケットの底にある紐をぎゅっと握りしめた。ピノが、あの脂ぎった手で教えてくれた、不格好で、しかし力強い蝶々結び。
「寂しくなんて、ない……。僕は、独りじゃなかったから。ジャンがいて、ピノがいて……不器用な痛みを、そのまま分かち合ってくれる、みんながいたんだ」
「強がりは、余計に心を痛めるだけよ。おやすみなさい、可哀想な子供」
マリアンが、吸い付くような手つきで僕を抱きしめた。その肌は、驚くほど、笑ってしまうほどに氷のように冷たかった。彼女の「温度のない抱擁」が、僕の意識を、光の届かない深い深い闇の底へと引きずり込んでいく。
その閉ざされた闇の奥で、僕は見た。
マリアンの内側に広がる、僕のそれよりも遥かに深く、底の見えない「無」を。
彼女は、誰のことも愛してなどいなかった。そして、彼女自身、誰からも本当の意味で抱きしめられたことがなかったのだ。彼女の驚異的な共感力は、他人の色に染まり、他人の感情を吸い取ることでしか、自分という存在を確認できない、極限の孤独が引き起こした生存本能の裏返しだった。
「……あなた、こそ」
僕はその虚無の闇の中で、逆に見つめ返した。彼女の瞳を、剥き出しの鏡のように。
「あなたは、誰にも抱きしめられたことがなかったんだね。自分の色を持っていないのが、……本当は、死ぬほど怖かったの?」
マリアンの細い身体が、一瞬、電流が走ったようにびくりと震えた。
「……何を、不合理なことを言っているの」
「あなたの優しさは、全部嘘だ。でも、その嘘をつかなきゃ一秒も立っていられないほど、あなたは、僕以上に空っぽだったんだね」
僕は、彼女の凍てついた背中に腕を回した。共感の暴力を、僕の「圧倒的な受容力」で、まるごと包み込む。毒を吐き出す蛇を、そのまま自分の器の中に閉じ込め、体温を分け与えるように。
僕の精神が、マリアンの放つ負の感情の激流に削られ、ボロボロになっていく不快な感触が伝わる。けれど、僕は決して腕を解かなかった。ピノが言った「いつでも解けるが、歩いている間は決して離れない」結び目を、今、この人との間に作るんだ。
「やめて……。私の中に、勝手に入ってこないで……っ!」
マリアンの声が、完璧な聖女の仮面を脱ぎ捨て、剥き出しの悲鳴に変わる。
これまで他人の心を一方的に支配してきた彼女が、初めて「他人から心を受け止められる」という、論理では説明のつかない不条理に直面し、その繊細な回路が過負荷を起こして火花を散らす。
「一緒に、空っぽになろうよ。そうすれば、新しい何かを……数字じゃない何かを、一緒に始められるかもしれないから」
僕の器が、彼女の吐き出す毒を全て飲み干した瞬間。
マリアンの手にあったデバイスが、内側からの圧力に耐えかねて粉々に砕け散り、玉座の間に満ちていた重苦しいノイズが、嘘のように霧散した。
彼女は、糸が切れた操り人形のように、僕の胸の中で崩れ落ちた。鏡に映し出された自分自身の虚像に耐えきれず、毒を全て吐き尽くして、彼女はただの少女に戻り、静かに眠りについた。
嵐が過ぎ去った後のような、耳が痛くなるほどの静寂。
僕の隣で、アモンがゆっくりと、震える手で身体を起こした。
「……セト。お前は、本当に……救いようのない、大馬鹿だ」
兄さんの瞳には、もう白銀の、あの冷徹な光はない。そこにあるのは、ただのひどく疲弊した、年相応の青年の、湿った瞳だ。
けれど、僕たちの「聖戦」は、まだ終わってはいない。
天窓の向こう、空では、アモンが遺した「最終測定」の残滓が、依然として世界崩壊のカウントダウンを非情に刻んでいる。そして、その崩れゆく数式の奥底から、全ての綻びを愉しげに嘲笑うような、あの「観測者」ノーティアの冷ややかな視線を感じた。
「さあ、兄さん。最後の一行を、二人で書き換えに行こう」
僕は、アモンに手を差し出した。数字も、正解も、何一つ持たないこの手で。




