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インデックスゼロの魔王  作者: あめたす


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第24話:円環の明日

第24話:円環の明日


 あれから、どれくらいの月日が流れただろう。

 かつて世界を統治していた冷徹な白銀の塔「アイアン・アイ」は、今ではすっかり緑に覆われ、巨大な墓標のように沈黙している。数字がすべてを支配していた時代は、今や老いた語り部たちが酒場でこぼす、質の悪いお伽話になりつつあった。

 過剰なまでに研ぎ澄まされたロジックも、毒を孕んだ共感の暴力も、湿り気を帯びた風の中に溶けていった。あんなに僕たちを追い詰めた「正解」という名の病は、今やどこにも見当たらない。


「パパ、見て。ピノおじいちゃんに教わったんだよ」


 小さな、けれど確かな重みを持った温もりが、僕のズボンの裾を引く。見上げると、そこには十歳になったばかりの僕の息子が、不格好な「蝶々結び」が施された靴を得意げに指差していた。

 僕は膝をつき、その紐の緩みを指先で確かめる。計算で導かれた黄金比ではない。ただ、歩いている時に解けないように、けれど脱ぐ時には自分の意志で解けるように。手触りだけで確かめる、生命の結び目。


「上手だね。これなら、どこまでだって歩いていける」


 僕は息子の柔らかな髪を撫で、ふと遠くの丘を見やった。

 そこには、かつての「論理の魔王」――僕の兄アモンが立っている。彼はあの日、血に濡れた左手を僕に握らせ、王座を捨てた。今はスラムの跡地に建てられた小さな学校で、子供たちに「数えられないもの」の尊さを説いている。


「セト、また計算の合わない問題が起きたよ」


 歩み寄ってきたアモンは、苦笑いしながら僕の隣に腰を下ろした。その手には、近隣の村々から届いた、他愛もない揉め事の相談書きが握られている。

 水路の掃除を誰がやるか、隣の家の鶏がうるさい。かつての彼なら「演算の無駄」と0.1秒で切り捨てていたはずの、愛すべきノイズたち。


「兄さん、それが『生きる』ってことだよ。最適解なんてない、答えの出ない問いを、ずっと抱えていくんだ」


「……全くだ。不合理極まりない。だが、この不格好な日々を、僕は父さんに見せてやりたかったよ」


 アモンは眩しそうに空を仰いだ。

 父アルドが生命維持装置の中で夢見ていた「完璧な平和」は、ここにはない。

 帝国が崩壊した後、世界は劇的に良くなったわけではなかった。数字という基準を失った人々は、今度は言葉や、肌の色や、些細な価値観の相違で、また新しい争いを始めている。

 ジャンのような無骨な献身は、時に暑苦しすぎて敬遠される。マリアンのような毒を含んだ共感も、形を変えて、誰かの寂しさにつけ込もうとあちこちで燻っている。

 それでも。

 目の前で泣いている奴がいれば、理由も分からぬまま背中をさすり、腹を空かせている奴がいれば、自分のパンを半分にちぎる。そんな、数値化不可能な「生命のうねり」が、今の世界には満ちていた。

 効率を求めれば死んでしまうような、無駄で、贅沢で、生臭い優しさが。

 不意に、息子が僕の腕を離れ、広場の奥へと走り出した。

 そこには、新しく設置された「全知測定」に代わる、簡易的な健康診断の列ができていた。人々は、自分たちの身体の状態を知るために、再び列に並び始めている。

 その列の最後尾。一人の男が、ひび割れたモノクルを指先で弄びながら、退屈そうに空を眺めていた。

 観測者、ノーティア。

 彼は僕と目が合うと、悪戯が成功した子供のように、薄く笑った。

 彼は知っているのだ。人間がどれほど「痛み」を分かち合おうと誓っても、やがてまた、自分を他人より優れていると証明したがる生き物であることを。

 比較という毒に酔い、再び「正しい数字」を求めて、誰かを境界線の向こう側へ押しやりたくなる本能を。

 再び現れるだろう「新たな正義の形」が、いつかまた、誰かを「異物」として排除し始めるその日を、彼はモノクルの奥で、涎を垂らすように待ち続けている。


「パパ、次、僕の番?」


 息子が測定の列に並び、小さな後ろ姿を見せる。

 その光景は、いつか見たあのディストピアの再来のようでもあり、あるいは、新しい時代の、ひどく危うい産声のようでもあった。

 僕は、胸の中にある「インデックス・ゼロ」の空っぽの器を確かめる。

 何もないからこそ、何だって受け止められる。

 世界がどれほど歪み、再び数字の檻を作ろうとしても。

 僕が、僕たちが、この不格好な「蝶々結び」を解かない限り、神の数式に世界を殺させはしない。


「行こう、兄さん。あの子の靴紐、少し緩んでるみたいだ」


 僕は兄さんの手を取り、共に歩き出す。

 文明の皮肉を、乾いた笑いで吹き飛ばし。

 生命のままならないうねりを、逃げることなく抱きしめながら。

 すべてを計算し尽くした兄さんが、何も持たない僕の隣で、ただの一人の兄として泥を跳ね飛ばしていく。

 計算できない明日の向こう側へと、僕たちはどこまでも、不格好に歩き続ける。

 この「ゼロ」から始まる世界を、新たな愛で支配し直す。


 僕らが――『インデックスゼロの魔王』なのだから。


(完)

全24話、お付き合いいただきありがとうございました。

『インデックスゼロの魔王』、これで完結です。

IQやEQなどの「数値」に振り回される現代への皮肉を込めつつ、最後は「自分の手で結ぶ紐」という、あまりにアナログで人間臭い感触に物語を託しました。アモンとセト、正反対の兄弟が辿り着いた「泥だらけの回答」が、読んでくださった皆様の心に少しでも残れば幸いです。

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