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インデックスゼロの魔王  作者: あめたす


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第19話:計算式の最後の一行

第19話:計算式の最後の一行


 玉座の間は、もはや部屋としての体をなしていなかった。

 天井は消失し、夜とも昼ともつかない赤黒い空が、内臓を曝け出した死体のように剥き出しになっている。頭上では、巨大なホログラムの数式が、脈動する血管のように明滅し、この世のあらゆる存在を粒子へと分解するための冷徹な演算を繰り返していた。その中心に、兄アモンはいた。

 彼は、光り輝くデータの繭に包まれ、無重力の海を漂うように宙に浮いている。

 無数の銀色のケーブルが、寄生植物の神経組織のように彼の背中から伸び、システムの心臓部へと直結されていた。アモンが浅い呼吸を繰り返すたび、世界の一部が「最適化」という名の静寂な消滅を遂げていく。


「兄さん、もうやめてくれ! こんなの、誰も望んでない!」


 僕の声は、空を走る数式の重低音にかき消され、空虚に霧散する。

 アモンは、重い瞼をゆっくりと持ち上げた。その瞳は、もはや人の情緒を映す鏡ではない。白銀の回路が瞳孔を埋め尽くし、宇宙の全知を走査する無機質なレンズへと変貌していた。


「セト……。遅かったね。計算は、すでに最終項に入った。あと数分で、IQ100未満の『不要な変数』はすべてこの世界からデリートされる。残されるのは、論理によって統御された、永遠の静寂と秩序が約束された楽園だけだ」


「そんなの、ただの巨大な墓場だよ! 生きてる人間を数字の端数みたいに切り捨てて、何が楽園だ!」


「人間は、救えないんだよ」


 アモンは、幼い子に言い聞かせるような、けれど絶望的に乾いた声で言った。


「父さんが証明し、私が補完した。人間は、本質的に互いを理解し合うことなどできない欠陥品だ。共感は『主観』という名のノイズを生み、愛は『執着』という名の争いを招く。ならば、すべてを透明な数字に置き換え、全人類の共通の憎しみを私という一点に集約させる。それだけが、この愚かな種を存続させる唯一の『究極の利他主義』だ」


 アモンが細い指を翻すと、空の数式がひときわ強く、網膜を焼くほどの白光を放った。

 空間に浮かぶ無数のモニターには、世界中で「存在権」を失った人々が、砂時計の砂のように塵となって消えていく凄惨な光景が映し出されている。

 かつてエリートと呼ばれ、数字に守られてきた者たちでさえ、新基準の数式に弾かれ、一瞬の猶予もなく消えていく。その不格好で、理不尽で、あまりに人間臭い「ノイズ」の断末魔。


「見ろ、兄さん。あそこで消えていく人たちは、ただの数字じゃない! 痛いんだ! 怖いんだ! ……兄さんが守ろうとしているのは、その『痛み』そのものじゃないのか!」


「痛み……か。お前は相変わらず、その不合理な不純物に固執するのだね」


 アモンが、一瞬だけ、彫刻のようなその表情を苦痛に歪めた。


「ならば、その『痛み』がどれほどの重荷か、お前もその空っぽの器で知るがいい」


 アモンが手をかざすと、僕の脳内に、冷たい鋼鉄の濁流のような情報が直接流れ込んできた。

 それは、ジジがアンテナとなって受信し続けていた、全世界の絶望と怨嗟の総量だった。


 ――おなかがすいた、死にたくない。


 ――どうして、僕が選ばれなかったの。


 ――あいつさえいなければ、あいつが憎い。


 ――神様、助けて、誰か。


 ――熱い、痛い、消えたくない……!


 何億という負の情念が、白熱した針となって僕の精神を無数に刺し貫く。あまりの激痛と情報量に、僕は内臓を絞り出されるような感覚で吐血し、冷たい床に倒れ伏した。指先が痙攣し、視界が真っ赤なノイズに染まる。

 これが、兄さんがたった独りで背負い続けてきた地獄。

 世界を救うという数式を解くために、アモンは自らを「魔王」という名のゴミ箱に仕立て上げ、この耐え難い汚濁をすべて飲み込み、処理し続けてきたのだ。


「どうした、セト。その程度の『不合理』に耐えられないのか。それがお前の言う、手触りのある生の正体だ。醜く、重く、どこまでも救いようのない泥だ」


 僕は、血と反吐の混じった口内を噛み締め、震える手でポケットを探った。

 指先が、ゴワゴワとした、けれどどこか温かい古い感触に触れる。

 ピノにもらった、あの使い古された、汚れた紐だ。


「……たしかに、泥だらけだ。兄さんの言う通り、人間は救いようがないかもしれない。……でもね、兄さん」


 僕は歯を食いしばり、折れそうな膝を叩いて、ゆっくりと立ち上がった。

 脳内を吹き荒れる絶望の嵐。その真っ只中で、僕は紐を手に取り、震える指先でゆっくりと結び目を作っていく。


「ピノは言ったんだ。計算で結ぶな、感覚で締めろって。……解けやすくても、不格好でも、僕たちはこの紐で繋がることができる。兄さんの完璧な数式が、どんなに正しくても……僕は、この間違ったままの、温かい紐を絶対に離さない!」


 僕は、自分の血で赤く染まった手で、アモンに向けて、歪な「蝶々結び」を突きつけた。

 それは、パノプティコンの全知測定では決して測定不可能な、IQ0の僕にしか紡げない「バグ」の証明。


「兄さん、独りで死なせない。兄さんが世界中の憎しみを背負うなら、僕はその兄さんを背負う。……兄さんを、ただの数字になんて、絶対にさせない!」


 アモンの銀色の瞳が、一瞬だけ、回路が焼き切れる前兆のように激しく揺らいだ。

 その隙を突くように、アイアン・アイの基部から、腹に響くような激しい地響きが鳴り渡る。


「――理屈じゃねえんだよ! セトが痛がってんなら、俺も痛えんだよ!」


 階下から、地獄の底を這い上がってきたようなジャンの咆哮が響く。

 ジジの激痛をその身に引き受け、肉体が崩壊する寸前まで「共感」を武器に変えて突き進む、反逆者たちの不合理な進撃。

 アモンが構築した、難攻不落のはずの論理の壁に、数値を無視した感情のヒビが入り始める。


「……計算外だ。これほどまでのノイズが、私の演算を……論理を凌駕するというのか……?」


 アモンの頬を、ひと筋の透明な雫が伝った。

 それは銀色の光を失った、ただの、熱く塩辛い人間の涙だった。


「終わらせよう、兄さん。数式じゃない、僕たちの泥臭い物語を」


 僕は、光り輝く兄の懐へと、全ての計算を捨てて真っ直ぐに駆け出した。

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