第18話:終末の最適解
第18話:終末の最適解
隔壁の向こう側から溢れ出したのは、どろりとした生命の原液だった。
それは光ではなく、重力を持った「声」の塊だ。何万、何億という人間が、歴史の狭間で押し殺してきた溜息や、数値化される瞬間に零れ落ちた呪詛。それらが、湿り気を帯びた熱風となって僕たちの肌を撫でる。
アイアン・アイの清潔な静寂に慣れた鼓膜が、その生々しい響きに悲鳴を上げた。
「うわっ……なんだ、これ。頭の中に、知らない奴らの泣き声が直接流れ込んでくる……。クソっ、耳栓代わりにもなりゃしねえ!」
ジャンが耳を塞ぎ、激しく咳き込みながら膝をつく。高いEQを持つ彼は、この「生のうねり」の直撃を、まるで神経を剥き出しにして塩を塗られるような苦痛として受けていた。
『アニマの核』。それは聖王アルドが封印した、文明の裏側。
IQという鋭利なメスで世界を切り分けるたび、切り捨てられた端材が腐敗し、溜まり続けたドブ川の終着点だ。
「これこそが、パノプティコンが隠し続けてきた『負の総和』よ。……皮肉なものね。論理が極まれば極まるほど、この澱みは深く、重くなっていく。兄さんは今、この溢れ出した泥をすべて自分一人で飲み込み、世界ごと心中しようとしているのね」
レオンが、激しい眩暈に耐えるように壁に手をついた。遮光ゴーグルの失われた彼の理知的な瞳が、絶望という名の光に染まる。
見上げれば、吹き抜けになった深淵の遥か上空、アイアン・アイの心臓部から、巨大なホログラムの数式が地上に向けて放射されていた。
アモンによる、全世界への「最終測定」。
空そのものが、巨大な計算機と化し、無数の数式が空を裂く流星のように降り注いでいる。
『測定開始より300秒経過。IQ100未満、全個体の存在権、抹消プロセスに移行――』
アモンの、情緒を削ぎ落とした無機質な合成音声が世界に響き渡る。
それと同時に、僕たちの視界の端で、世界の端が崩れ始めた。
ホログラムの数式に触れた物質が、黄金比に基づいた幾何学的な粒子へと分解され、大気に吸い上げられていく。
それは、処刑というよりは「整理整頓」だった。
不要な蔵書をシュレッダーにかけるような、あまりに清潔で、あまりに冷酷な、論理の暴力。
壁面に埋め込まれた街頭モニターには、自分の身体が透け始めたことに気づき、愛する人を抱きしめようとして、その腕ごと幾何学的な砂となって消えていく人々の姿が映し出されている。
「……あ、愛してる……。数字になんて、ならなくていいから……」
消滅の間際、生涯を数値に捧げてきたはずのエリート層の男が、自分たちが「ノイズ」として切り捨ててきた、数値化不可能なその言葉を口にした。
その瞬間、彼を分解していた数式が一瞬だけバグを起こし、強烈なノイズを走らせる。
滑稽だった。死の直前に、自分たちが否定し続けた「感情」という不確かなものに縋っている。
けれど、その絶望に歪んだ横顔は、アモンの描くどんな完璧な幾何学模様よりも、ひどく、残酷なまでに美しかった。
「セト、ぼさっとすんな! 兄貴の面を拝みに行くぞ! こんなクソみたいな数式、俺たちの『熱』で焼き切ってやる!」
ジャンの、喉を焼くような叫びで、僕は我に返る。
僕たちは、せり上がる磁気昇降機に飛び乗った。
上昇するにつれ、周囲の空間は「生のうねり」と「論理の光」がぶつかり合い、極彩色のカオスと化していく。
ふと、視界に白い影がよぎった。
崩れゆく回廊の端、返り血で汚れた白い手袋を嵌め、暗殺者ジジが立っていた。
彼は、世界中から中継される「抹消の痛み」に晒され、全身を痙攣させている。
一歩歩くごとに、誰かの絶望が彼の中にダイレクトに流れ込み、彼の精神を内側から引き裂こうとしていた。
「……セト……。痛い、んだ……。世界が、こんなに、泣いて……。止めなきゃ……でも、止めれば……僕が、僕じゃなくなっちゃう……」
ジジの瞳から、血の混じった涙が零れる。
彼は剣を抜こうとして、そのあまりの「情念の重さ」に、腕を激しく震わせた。
アモンは彼を、ここへ置いたのだ。
世界中の「痛み」を中継し、増幅させる生きたアンテナとして。全人類の苦しみをジジという一点に集約し、その極限の苦痛をもって、世界を「最適化」しようとしている。
「ジジ……!」
僕は昇降機から身を乗り出し、彼の震える手を取ろうとした。
けれど、ジジは悲しげに首を振る。
「来ないで……。今の僕に触れたら……君の『ゼロ』まで、塗り潰されてしまう……。アモン様は、言ったんだ……。君こそが、この激痛の連鎖を断ち切る、唯一の『空白』だって……」
ジジの身体が、黒いノイズに包まれていく。
アモンが仕掛けた「共感の爆弾」。
世界中の憎しみを一身に背負ったアモンと、その痛みをリアルタイムで受信し続けるジジ。
二人の兄弟、二人の孤独が、今、アイアン・アイの頂上で、死という名の最適解へと繋がろうとしていた。
「ジャン、レオン! ジジを頼む! そいつの痛みを、少しでもいい、分けてやってくれ!」
僕は、二人をジジの元へと突き飛ばした。
ここから先は、僕一人で行かなければならない。
IQもEQも持たない、何者でもない僕だからこそ、兄さんのあの完璧に計算された孤独の中に、土足で踏み込めるはずだから。
「……バカ野郎、絶対に戻ってこいよ! 蝶々結びを解くのはまだ早えぞ!」
ジャンの怒鳴り声を背に、僕は独り、アイアン・アイの最上層へと加速する。
空は赤黒く染まり、数式の粒子が死を告げる雪のように降り積もっている。
その光景は、滅びゆく文明が最後に見た、最も贅沢で、最も虚しい夢のように見えた。
重厚な扉が開く。
そこには、全宇宙の論理をその細い背に負った、たった一人の「悪魔」が待っていた。
アモンは、こちらを振り返ることなく、空中に浮かぶ巨大な計算式に指を滑らせている。
「来たね、セト。……世界という数式の、最後の一行を書き込みに来たのかい? それとも、ただの誤差として消えに来たのかな」
アモンの、氷のように冷たい声が僕の魂を貫く。
いよいよ、終わりを始めるための、最終決戦が幕を開ける。




