第17話:観測者の嘲笑
第17話:観測者の嘲笑
闇の底に辿り着いた僕たちを待っていたのは、沈黙という名の重圧だった。
『アニマの深淵』。
ロゴス・ノアのすべての計算が産声を上げ、そして死んでいく墓場。見上げるほど巨大な、もはや都市そのもののような大歯車が、油の切れた断末魔を上げながら、のろのろと世界の終焉を刻んでいる。
中央統治府の白磁の清潔感に慣れた目には、ここはあまりにグロテスクだった。剥き出しの配線は内臓のようにのたうち回り、錆びた鋼鉄の匂いが鼻腔を刺す。
「……ひでえ匂いだ。鉄が腐った死体の中に、生きたまま放り込まれた気分だな」
ジャンが、血と油に汚れたシャツの袖で鼻を覆った。彼の言う通り、ここには統治者たちが愛する「美しき幾何学」は微塵もない。あるのは、吐き気がするほど濃密な「情報の残滓」だ。処理しきれなかった人々の情動が、澱のように重く、暗く、床に這いつくばっている。
「ここがシステムの最深部……。全知測定のアルゴリズムが、物理的な形を持って存在している場所よ」
レオンが、遮光ゴーグルの破片を乱暴に払い落としながら呟く。彼の瞳は、もはや数値を隠そうとはしていなかった。剥き出しになった高IQの光が、この暗闇に蠢く「歪み」を、手術室の無影灯のように冷酷に照らし出している。
――カチ、カチ、カチ。
不規則な、けれど執拗な音が、歯車の軋みとは別の場所から聞こえてきた。
僕たちは反射的に身を構える。
暗闇の向こう、巨大な冷却パイプの上に、一人の男が腰掛けていた。
古いモノクルをシルクの布で、慈しむように磨き、退屈そうに足を揺らしている。
彼がそこに座っているだけで、周囲の空間がビデオテープの乱れのように小刻みに震え、現実の解像度がそこだけ極端に低下しているのがわかった。
僕がその男を見上げると、男は無邪気な子供のように顔を上げ、唇の端を吊り上げた。
「やあ、僕はノーティア。インデックス・ゼロ、そして愉快な『エラー』の諸君。上の階では、お兄さんがずいぶんと趣味の悪い演劇を始めたようだね。人類全員に『自分を憎め』だなんて。あんなに効率的で、あんなに救いのない愛の形は、久しぶりに見たよ。脚本としては、満点に近い不快さだ」
観測者ノーティア。
彼は右目のモノクルを嵌め直し、僕たちを鑑定品でも見るように舐め回した。
「でも、残念。彼の計算は、もうすぐ破綻する。なぜなら、この世界そのものが、もう満腹なんだ。君たちが『感情』と呼ぶあの生臭くて粘着質なエネルギーを詰め込みすぎて、お腹を壊してしまったんだよ。パノプティコンの胃袋は、もう限界だ」
「何が言いたい……。兄さんの計画が、失敗するっていうのか?」
「失敗? いや、もっと無慈悲な結末だ」
ノーティアはパイプから飛び降りると、重力という概念をあざ笑うかのように、僕の目の前へ音もなく着地した。
彼の周りだけ、世界の色彩が剥離し、モノクロームの粒子が舞っている。
「彼が魔王になろうと、君が救世主になろうと、溢れ出した歪みはもう止まらない。見てごらん、あの歯車を。数値から零れ落ちた者たちの『叫び』が、あんなに美しく実体化している」
彼が指差した先。巨大な主軸の歯車が、心臓発作を起こしたかのような不自然な震動を起こしていた。
歯と歯の間に、黒い泥のようなものが詰まっている。
いや、それは泥ではない。
それは、数値化され、切り捨てられてきたはずの絶望、羨望、そして数えきれない「痛み」の集積。人々のドロドロとした感情の残滓が、物理的な質量を持って、システムの心臓部を内側から食い荒らしていた。
「パノプティコンは、最初から壊れていたんだよ。複雑なままの世界を、たかだか三桁の数字に押し込めようとした瞬間にね。アモン君がやろうとしているのは、沈みゆく泥舟の浸水口を、自分の肉体という変数で塞ごうとしているようなものだ。……ねえ、セト。君ならわかるだろう? 溢れた水は、どこへ行くと思う?」
ノーティアの指先が、僕の頬をかすめた。
その感触は、ジジが恐れていたあの「痛みの流入」とは根本的に違う。ただひたすらに空虚で、底なしの冷たさを湛えていた。
「文明はいつだってそう。自分たちが制御できないものを『ノイズ』と呼んでゴミ箱に捨て、そのゴミの重みで自壊する。……皮肉だよね。君のお兄さんがその命を賭して救おうとしている文明そのものが、君という『ゼロ』を産み落とした毒の温床なんだから。彼は、自分を殺そうとするものを救おうとしている。滑稽なほどに人間臭いじゃないか」
「……それでも」
僕は、ポケットの中の古い紐を握りしめた。
ピノの指のタコ。ジャンの、少し高すぎる体温。ドゴーンの、機械越しに漏れた亡き家族へのノイズ。
数字にはならなかったけれど、僕のこの空っぽの器を埋めてくれた、愛おしい感触たち。
「兄さんは、独りで戦ってる。世界に嫌われることで、独りでその毒を飲み干そうとしてる。……だったら、僕はその毒ごと、兄さんを抱きしめるだけだ。数字にできないものがあるって、証明するために」
ノーティアは、一瞬だけ、つまらなそうに眼を細めた。
けれどすぐに、再び愉快そうな嘲笑を浮かべる。
「いいよ、やってごらん。論理(IQ)の魔王と、共感(EQ)の怪物たちが踊り狂うデストピア・ダンス。これが最終幕だ。……ただし、忘れないで。歪みを食べ尽くしたあとに残るのは、また新しい歪みの種だけだということを。神(数字)を殺したところで、君たちが人間である限り、このうねりは止まらない」
ノーティアの姿が、ビデオノイズに紛れて霧散していく。
彼の残酷な嘲笑だけが、深淵の底にいつまでも冷たく残響していた。
その時、轟音と共に、深淵のさらに奥――『アニマの核』を封じ込めていた重力隔壁が、鋼鉄の悲鳴を上げながら開き始めた。
そこから漏れ出してきたのは、光ではない。
人の喉が発し得る限りの、あらゆる苦痛と、愛着と、執着を煮詰めたような、圧倒的な「生のうねり」だった。
それは、美しくも醜い、数値化を拒む生命そのものの咆哮だ。
「行くぞ、セト! 兄貴の気取った数式、まとめてブチ壊しにな!」
ジャンのゴツゴツとした手が、僕の背中を強く叩いた。その痛みが、今、僕がここに生きている証拠だ。
僕は深く頷く。
論理が壊れ、共感が凶器と化すこの世界の果てで。
僕たちは、まだ何者でもない自分たちを「蝶々結び」で繋ぎ、未完成の明日へ向かって一歩を踏み出した。




