第16話:魔王の宣戦布告
第16話:魔王の宣戦布告
アイアン・アイの警報音は、どこか祝祭の音楽に似ていた。
それは、終わりが始まることを告げる、残酷なまでに晴れやかなファンファーレ。空調の効きすぎた冷たい大気が、断続的な赤光に染まるたび、世界の皮膚が剥がれ落ちていくような錯覚を覚える。
玉座の間に響き渡るその音の渦の中で、兄アモンは、もはや人の子ではない「概念」へと変貌を遂げようとしていた。
「最終演算だと……。ふざけるな、お前がやってることはただの大量殺人だ!」
ジャンの怒号が、幾何学的な沈黙を貫いて跳ね返る。彼はズタボロの身体を引きずり、震える拳をアモンへと向けた。指の間から零れるのは、スラムの泥と、仲間を守れなかった悔恨の血だ。その拳には、生存効率なんてクソ食らえと言わんばかりの、泥臭い誇りが宿っている。
けれど、アモンはその汚れた視線すら一瞥もしなかった。ただ、空中に浮遊する無数のデータウィンドウを、ショパンの夜想曲でも弾くような優雅な手つきで操作し続けている。
「殺人、という言葉は、数学的に正しくないね。これは『剪定』だ」
アモンは呟く。その声には、怒りも悦びも、ましてや加害の意識すら混じっていない。ただ真理を述べる数学者のような、透明で空虚な響きがあるだけだ。
「この世界、ロゴス・ノアは、増えすぎた情報の重みに耐えかねて沈没しようとしている。父さんが遺した『パノプティコン・システム』は、人間を愛するあまり、その不純さ――バグまで抱え込んでしまった。共感、慈悲、甘え……。それらが非論理的なノイズとなって、最適解を曇らせる。だから、私がそのノイズをすべて吸い上げる。……全人類の『憎悪』という、最も純度の高い単一エネルギーに変換してね」
アモンが白く細い指を翻すと、玉座の間の全面を覆うホログラムが、世界の「今」を映し出した。
中央統治府の白磁の街並み。シリンダー・シティの錆びた工場群。そして、僕たちがいたスラム、リムボ・ジャンクション。それらすべての街頭モニターに、兄の端正な顔が、凍てつくような美しさを湛えて映し出されている。
全世界が、瞬時に静まり返るのが肌でわかった。
空気を支配する、圧倒的な論理の暴力。人々は、自分たちの明日が、たった一人の青年の指先で「デリート」されようとしている事実に、根源的な、生物としての恐怖に震えているはずだった。
「……兄さん、止めて。そんなことのために、父さんは僕を遺したんじゃない。そんな悲しい数式のために、ピノは僕に『蝶々結び』を教えたんじゃないんだ!」
僕は叫びながら、一歩前へ踏み出した。足元で、幾何学的な紋章が僕の「ゼロ」という測定不能な数値を拒絶し、青白い火花を散らす。
アモンはようやく、僕の方を向いた。その瞳の奥底には、かつて僕を抱き上げた時の慈しみと、そして深い深い絶望が混ざり合った、歪な愛が宿っていた。
「セト、君はまだ、その不格好な紐の結び方に救いがあると思っているのかい? ほどけやすく、頼りない、感情という名の脆弱な紐に。……いいだろう。なら、証明してみせるといい。私が作り上げる『完璧な孤独』の檻の中で、その紐が、誰と誰を繋ぎ止められるのかを」
アモンの声が、全世界のスピーカーを通じて、雷鳴のように轟いた。
『全人類へ告ぐ。諸君に最後の測定を課す。これより、IQ100未満の者の存在権を、順次抹消する。生き残りたければ、隣人を蹴落とし、数値を高めよ。あるいは――私を呪え。私を殺したいというその憎悪だけが、バラバラの君たちを一つの生命体として繋ぎ止める、唯一の絆となるだろう』
モニターの向こうで、阿鼻叫喚の悲鳴が上がる。
数値の低い労働者たちが、治安維持ドローンの赤い光にさらされ、汚れた路地裏を逃げ惑う姿。
それが、兄の描いた「究極の利他主義」の正体だった。自分一人が「魔王」という絶対的な悪の変数になることで、バラバラだった人類に「共通の敵」を与え、強引に団結させる。それは、あまりに孤独で、あまりに不器用な、天才にしかできない自己犠牲の形。
「……馬鹿だよ、兄さんは」
僕の頬を、熱いものが伝った。ハルが流した無機質な涙とは違う、塩辛くて熱い、計算不可能な液体。
兄は、世界を救うために、自分という「人間」を世界から切り離そうとしている。自分自身を、冷たい数式の最後の一行として使い潰そうとしている。
「そんなの、愛じゃない。ただの独りよがりだ。……兄さんが世界を嫌いになっても、僕が兄さんを嫌いになることは、絶対にないのに!」
「計算外だね」
アモンは、一瞬だけ、微かに笑ったように見えた。
「君のその根拠のない肯定こそが、私の演算を狂わせる唯一のバグだ。……行け、セト。このアイアン・アイの最深部で、君が何を掴み取るか、最期まで観測させてもらうよ」
アモンが大きく手を振ると、僕たちの足元の床が激しく振動し、急激に下降を始めた。
重力に逆らうような加速。ジャンとレオンが、ふらつく僕の身体を左右から支える。見上げれば、遠ざかる玉座の間で、兄が一人、巨大な光の繭に包まれていくのが見えた。
「セト、しっかりしろ! 下りた先は、システムの心臓部……『アニマの深淵』だ!」
レオンの声が、切り裂くような風の音にかき消される。
闇の中へ落ちていく。
数字のない、光もない、純粋な暗黒。
けれど、僕のポケットの中には、ピノからもらったあの古い紐が、確かに「手触り」を保って存在していた。
兄さんが魔王になるなら、僕は、その魔王さえも包み込めるほどの「空っぽな器」になる。
どんなに精密な論理も、どんなに冷酷な共感も届かない場所で、僕たちは、もう一度本当の「人間」として出会わなければならない。
下降が止まる。
重苦しい沈黙が、再び僕たちを支配した。
目の前には、錆びついた巨大な歯車が、ゆっくりと、けれど確実に、世界の崩壊を刻んでいた。




