第15話:聖域の綻び
第15話:聖域の綻び
静寂、というのは、時にどんな轟音よりも暴力的に鼓膜を叩く。
父・アルドの生命維持装置から漏れていた、あの心許ないメトロノームのような規則的電子音が、ぷつりと途切れた。心電図の緑色の細い線が、永遠の水平線を描く。それと同時に、半透明のチューブを脈打つように流れていた淡い燐光が、引潮のように消えた。
かつて世界を数式で再構築した「神」であったはずの肉塊が、ただの重たい、冷え切った「物質」へと成り下がる。
「兄さん……何をしたんだ。父さんは、まだ……生きていたかったはずだ」
僕の声は、あまりに白く、あまりに透き通ったこの空間に、吸い込まれるように霧散していった。
兄・アモンは、眉一つ動かさない。まるで読み終えた古い文庫本のページを、指先を汚さぬよう丁寧に閉じるような、そんな淡々とした手つきで、指先に残った微かな塵を払っただけだった。
「セト。君は相変わらず、物事を情緒という名の『ノイズ』でしか捉えられないんだね。父さんはもう、百年も前に精神的な死を迎えていたんだ。ここに残されていたのは、パノプティコンを維持するための『古いOS』としての物理的機能だけ。非効率で、停滞していて、そして何よりこの美しい論理の世界を、窒息させようとしていた老廃物だよ」
アモンが、大理石の床を鳴らして歩き出す。
一歩ごとに、床に埋め込まれたホログラムが彼を「真なる王」として認識し、万華鏡のような幾何学的紋章を次々と描き出していく。その風貌は、古代の神殿を彩る若き石像のように端正で、けれど毛穴の一つも見えないほどに、生命の泥臭さから徹底的に乖離していた。
「父さんは世界を愛しすぎた。だから数字という名の標本にして、ガラスケースの中に閉じ込めたんだ。でもね、セト。標本は呼吸をしない。だから僕が、この停滞した世界を『完了』させてあげることにしたよ。数式の最後の一行を、僕の手で書き加えるために」
「『完了』させるって……。街を焼き、人々を数値という烙印で区切って選別することが、兄さんの言う愛なのか!」
背後で、ジャンの怒鳴り声が響いた。
彼は血の滲む脇腹を強引に抑え、脂汗を流しながらも、アモンを射殺さんばかりの視線で睨みつけている。その野生的な憤怒だけが、この無機質な聖域で唯一「生きている熱」を放っていた。
アモンは、まるで見慣れない昆虫を観察するかのような、無機質な興味をジャンへ向けた。
「IQ 70。生存効率法によれば、君は三世代前に淘汰され、肥料になっているはずの個体だ。けれど、君のその不合理きわまる怒りが、僕の計算式の予測値をコンマ数パーセント、わずかに押し上げている。……なるほど、セト。君がスラムの底から拾い集めてきた『ゴミ』たちは、確かに、予測不可能な面白い変数だね」
「ゴミじゃない! ジャンは、僕に数字じゃ測れない『痛み』を教えてくれたんだ!」
僕は叫びながら、アモンとの距離を詰めた。
一歩、また一歩。けれど、彼との間には、物理的な距離を超えた「絶望的な壁」が横たわっているかのように、踏み込むほどに拒絶の冷気が強くなる。
「痛み。そうだね、それは生命が抱える最大のバグであり、同時に唯一の、数値化できない駆動エネルギーだ」
アモンは、アルドの遺体の背後にそびえ立つ、黒い鏡のようなメイン・サーバーへと、白く細い手をかざした。
「セト、君はかつて、僕に問うたね。数字を持たない『ゼロ』の自分に、一体何ができるのかと。……その最適解を教えてあげよう。君は、父さんがこの硬直したシステムを自ら破壊するために用意した、最後の『緊急停止ボタン(キル・スイッチ)』だったんだよ」
サーバーが、重低音の唸りを上げ始めた。
空中に浮かぶホログラムの数字が狂ったように回転し、青から不吉な深紅へと染まっていく。アイアン・アイの全機能が、一人の支配者の意思によって塗り替えられていく、その前兆。
「父さんはね、いつか自分が作り上げたシステムが、生命のうねりを殺し尽くしてしまうことを予期していた。だから、すべての数値を拒絶する『純粋な異物』である君を産み出し、あえてスラムの汚濁の中へ放逐した。君という不純物が、外の世界で人々の『痛み』を吸い込み、再びここへ戻ってきた時――その『ゼロ』が、全知測定の数式を根底から解体し、パノプティコンを内側から爆破するようにね」
アモンの言葉が、鋭い氷の刃となって僕の胸を刺した。
僕がゴミのように捨てられたのも、ピノに出会い、蝶々結びを教わったのも。すべては父さんが計算した「救済」という名の、あまりに壮大なプログラムの一部だったというのか。僕の絶望も、誰かとの出会いも、あらかじめ引かれたレールの上を走らされていただけだなんて。
「……じゃあ、兄さんは……。兄さんも、その父さんの計画に従っているだけなの? 僕をここで殺すことが、兄さんの役割なの?」
「いいや。僕は、父さんの書いた軟弱な計画を『上書き(オーバーライト)』した」
アモンの瞳に、かつてないほどの、深淵のような冷徹な光が宿った。
「父さんの愛は、あまりに情緒的で、優しすぎた。システムを壊して、再び混沌とした原始の暗闇へ人類を戻すなんて、あまりに非論理的だ。僕は、この『パノプティコン』を真の意味で完成させる。人間が、言葉を尽くしても決して互いを理解し合えない欠陥生物である以上、支配に用いるべきは、共感ではなく絶対的な『憎悪』だ」
アモンが、優雅な仕草で指をパチンと鳴らす。
瞬時に玉座の間の壁が透明化し、眼下に広がる世界の全景が露わになった。
燃え盛るシリンダー・シティ。逃げ惑う人々の叫びを無視するように、空を覆い尽くすモニター群に、アモンの端正な顔が映し出される。
「全人類に告ぐ。私は、弱者を切り捨てる。私は、数値を愛さない者を、例外なく消去する。私は、君たちが心ゆくまで憎むことができる、唯一無二の『魔王』になる。……憎しみが共通の言語となった時、初めて人類は、個を捨てて一つになれる。それが、僕の導き出した、人類絶滅を回避するための『究極の利他主義』だ」
世界の綻びは、もはや修復不可能なほどに引き裂かれた。
アモンは、僕たちがかつて愛した、あの優しい兄の面影を完全に脱ぎ捨て、論理という名の怪物へとその魂を捧げたのだ。
「さあ、始めようか、セト。君の持ってきた、薄汚くて美しい『不合理』と、僕が導き出した、無慈悲で完璧な『最適解』。どちらが、この壊れた世界を愛するにふさわしいか。……最終演算の開始だ」
アイアン・アイの、冷たい警報音が鳴り響く。それは、文明の終焉と、血塗られた新時代の幕開けを告げる、葬送の音楽のようだった。




