第14話:幾何学の涙
第14話:幾何学の涙
完璧なものというのは、どうしてこうも脆いのだろう。
ハルの白い頬に一筋引かれた、ドロリとした泥の跡。それは、神殿のように静謐な回廊に突如として奔った、致命的なまでの亀裂だった。彼はその汚れを震える指先でなぞり、信じられない汚物を見るかのように目を剥いている。
「汚い……僕に、計算外の不純物が触れた……排除……再配置……いや、定義できない……」
ハルの声が、ハウリングを起こしたスピーカーのように震える。その振動に呼応し、彼が支配していた立方体の世界が、物理法則を無視して歪み始めた。整然とスタッキングされていたブロックが、意味をなさぬガラクタのようにひっくり返り、重力を失って宙へと放り出される。
「ハル、座標が狂ってるぞ! フィードバックが強すぎる、制御を戻せ!」
レオンが叫ぶが、ハルにその声は届かない。彼は自分の頬に刻印された「熱」と「湿り気」――僕が跳ね飛ばした泥の、あまりに生々しい質感に、回路を焼き切られた精密機械のように固執していた。
「計算しなきゃ……。今の液体の粘度、飛散の放物線、僕の皮膚との摩擦係数……。でも、解が出ない。どうして、ただの汚れなのに、こんなに『熱い』んだ! 脳内のニューロンが、この一点にだけ、リソースを食いつぶされている!」
ハルの指先が痙攣するように激しく動き、空中に無数の幾何学模様と数式を書き殴る。けれど、その数式はどれも結末を迎えずに、毒々しいノイズとなって霧散していく。
彼が世界を組み替えて遊んでいたのは、きっと、世界に「直接」触れるのが怖かったからだ。レゴブロックのように記号化してしまえば、生々しい痛みも、やりきれない愛しさも、すべては「座標」という安全な檻の中に閉じ込められる。彼は、清潔なガラス越しにしか、生命を眺めることができなかった。
「あいつ、完全にロジック・パニックに陥ってやがる。今がチャンスだ、セト! 畳み込め!」
ジャンが肩で息をしながら、折れた鉄パイプを杖代わりにして立ち上がる。その眼光は鋭いが、足元は生まれたての小鹿のように震えていた。
けれど、ハルの暴走は止まらない。崩壊する幾何学の嵐が、今度は逆流するようにハル自身を飲み込もうとしていた。空間の端々から、鏡の破片のような鋭利な透明の欠片が、彼の小さな身体を切り刻もうと降り注ぐ。
「……危ない!」
僕は反射的に、思考よりも先に地を蹴っていた。
理屈じゃない。彼がアモンの冷徹な側近だとか、僕たちを「書き損じ」として殺そうとしたとか、そんな高潔な「正解」はどうでもよかった。ただ、数字の嵐の中で、今にも泣きそうな顔をして震えている一人の子供を、見捨ててはおけなかったんだ。
「よせ、セト! 座標軸に巻き込まれるぞ!」
レオンの制止を振り切り、僕は崩落するブロックの隙間を、動物的な本能だけで縫って、ハルの小さな身体を力一杯抱きしめた。
ドサリ、と硬い床に倒れ込む。
腕の中のハルは、驚くほど軽くて冷たかった。まるで、体温という概念をどこかに置き忘れてきた、精巧な陶器の人形のように。
「……なに、を……。不合理です。僕を救ったところで、あなたの生存率は一パーセントも向上しない。……計算が、合わない……」
「うるさいな。数字の話は、もういいよ」
僕は、ハルの耳元で囁いた。
降り注ぐ空間の破片が僕の背中を無慈悲に切り、熱い液体がハルの純白の服を赤く染めていく。鉄の匂いが、無機質な回廊に立ち込める。
「ねえ、ハル。これが『接触』だよ。これが、誰かと触れ合うってことなんだ。計算式じゃなくて、ただの熱。不格好で、泥臭くて、痛くて……でも、君は一人じゃないってこと」
ハルの瞳が、万華鏡のように激しく揺れた。
彼は、僕の肩に回された手のひらから伝わる、僕の不規則な心音を、懸命にデータ化しようとしているようだった。けれど、あまりに速く、あまりに激しいそのリズムは、世界最高の解析ソフトをもってしても「エラー」としか弾き出せない。
やがて、ハルの目から一粒の大きな透明な液体が溢れ、僕の腕に、熱を持って落ちた。
「……あ。排泄、現象……。目から、制御不能な液体が……。熱い、よ。セト、これ、なに? 僕の、どこが壊れたの?」
「それは涙って言うんだよ。不純物なんかじゃない。君が、ちゃんとここで生きてるって、証拠だよ」
空間の解体が、嘘のように止まった。
鋭利な立方体のパズルは砂のように崩れ落ち、ただの殺風景な、けれど確かな「温度」のある回廊に戻っていく。
ハルは、生まれて初めて触れた「他人」という名の熱さに、幼子のように混乱し、声を上げて泣きじゃくった。それは、黄金比という名の檻から解放された、一人の人間の産声だった。
ハルを後にし、僕たちは重い銀色の扉の前に立った。
レオンが残った力を振り絞り、セキュリティをハッキングする。彼の指先も、もはや限界に近いほど震えていた。割れた遮光ゴーグルの隙間から、彼自身の「隠された瞳」が、青白い光を放っている。
「この先が、玉座の間……世界の脳髄だ。……いいか、セト。アモンはハルのようにはいかない。あいつは、自分自身の絶望さえも計算式の一部として組み込んだ、真の『論理の魔王』だ。甘っちょろい共感なんて、牙も立たねえぞ」
「わかってる。でも、結ばなきゃいけないんだ。僕と兄さんの、最後の蝶々結びを」
扉が、重々しい金属音を立てて、ゆっくりと左右に開く。
そこに広がっていたのは、アイアン・アイの最奥――「聖域」。
中央には、無数のチューブとクリスタルのケーブルに繋がれ、思考するだけの肉塊と化した父・アルドがいた。巨大なホログラムディスプレイが周囲を取り囲み、全世界の絶望と希望、そして死を、ただの数字として冷酷に映し出している。
そして、その傍ら。
返り血一つ浴びていない、彫刻のように美しく冷ややかな兄アモンが、慈悲深い微笑みを浮かべて立っていた。
「おかえり、セト。ようやく、この計算式の最終行まで辿り着いたね」
アモンは、恋人に囁くような甘い声でそう言うと、迷いのない手つきで、父をこの世に繋ぎ止めていた生命維持装置のプラグを、静かに引き抜いた。
「……兄さん!」
「父さんは世界を愛しすぎた。だから数字という名の『標本』にして、永遠に閉じ込めたんだ。でも、セト。標本は生きていない。だから僕が、この歪んだ世界を『完了』させてあげることにしたよ」
崩れ落ちる父の肉体を一顧だにせず、アモンは僕に向かって優雅に両手を広げた。
その背後で、アイアン・アイの全機能が、僕たちという最大の「バグ」を排除するために、静かに再起動を始める。
聖域の綻びは、もう、誰にも止められない特異点へと突入していた。




