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【完結】月琴伝  作者: 雲野 蜻蛉
月琴別伝
402/403

月琴別伝 十二


 行き違う人々がみな、一様に眉をしかめる。

 それはそうだろう。自身の恰好ときたら見られたものではない。野外で何日も過ごしたことは確実である。

 だが委細構わず、琴箭は驢馬が無理をゆるす限り、駆けに駆けた。

 (しょう)にはいった所でついに驢馬が悲鳴をあげてからは、人に預けて自らの足で駆けた。

 そうしてとうとうたどり着いた。



 その日、曹操はちょうどもてなしの最中であった。客は漢朝の公卿や名士、さらには辺境の情勢をしるため、駅伝の者らも宴に集っていた。これはいわば、赤壁の事後、勢力の巻き直しの一巻である。

 そこへ、入ってきた侍従が曹操にそっとこう耳打ちをした。


「蔡文姫となのる者が拝謁を願っております」


「なに?」


 曹操は眉毛を寄せ、そして、「ああ、あのことか」と思い至る。しばし考えてから、よかろう許すと返した。そうしてやおら袖をあげると、ずらりと左右に居並んで座す客らの注目を集める。


「諸君。ただいまあの蔡伯楷(さいはくかい)の娘、文姫が訪問してくれたとの報せがあった。諸君らにもひき会わせよう」


 この一帯において、蔡邕(さいゆう)の家名はいまだに(かくかく)々としたものがある。しかも娘のほうも聡明利発さは若い頃より知れ渡っており、見知らぬ遠方の者らは噂にききこそすれ、会える機会なぞ訪れるはずもない。雅なる文人の顔をひと目見たいという気がおきる。

 また、公卿のなかには父の時代から縁のある者もひとりふたりはあり、これを懐かしく思う。

 そんなわけで皆、どんな人物がくるのであろうと、宴の興も手伝って期待して待っていた。が、殿の(へり)に参じ平伏の礼をとった女は、およそ思い描いた者とはかけ離れた姿だった。

 結いあげた黒髪はボサボサでいまにもほどけそうなほど。清澄であったろう衣は埃と土にまみれている。

 裾の具合からみるに泥まぶれとなり、それで殿中を汚すことを嫌ったのだろう、足はこの涼気のなか裸足である。

 許されてあげた顔は普段ならばかくありやと、と思わせるが、目に見える疲労と焦りと恐怖を必死におし込めんとする様が容易にみてとれ、挑みかかるように険しかった。



 曹操は当然、なんの目的で彼女がやってきたのか解ってはいたけれども、まさかという醜態に、得意げに自慢した手前眉根を曇らせた。


「よう来てくれた」


 琴箭はもういちど礼をしてから、袖を合わせたままいった。


「お目もじ叶い、僥倖(ぎょうこう)の至りにございます、丞相閣下。本日はなにとぞお願いしたき儀があり、座を汚す非礼、お許しくださりませ」


 おや、と皆は思った。

 どんなみっともない(なり)をしていても、その者の本質までを変えることはできない。姿は農婦同様にみえて、その実、淀みない口調と明晰な声は、人をして惹きつけるものがあるではないか、と。


「······何かな?」


「──我が夫、董祀(とうし)の命を、なにとぞお助けくださりませ!」


「祀の?」


 曹操は(ひげ)を撫で思案する。そしてここで不可解にも、ニヤリと笑っていった。


「だがあの者は、余の期待に背いた。

 だけでなく、民を安んじるようにとした我が命に早々に背き、民にまたもや流疫の苦胆を舐めさせた。そもそもの管理もずさんであったと、上役からの報告にもある。

 これは死罪に該当する罪である」


「······たしかに、夫にも行き届かない点があったやも知れませぬ。

 ですが、流疫は天が遣わしたもの。必ずしも人の力では免れえぬものと存じます。

 丞相閣下にあられましても、先年はひとかたならず御心を砕かれ、ゆえにこそ将士を慈しみ、民を憐れんで下知をくだされました。そのような難題、我が夫独りが如何に励もうと、防ぎえるものではありませぬ。

 ましてや君の臣たる夫が、すすんで命に背きましょうや。

 夫はただご期待にお応えしようと忠節に励んだだけで、神人でもなければ医師でもなく、たまたま巡り合わせが悪くなってしまっただけなのです」


 この言い様には皆ギョッとした。

 丞相である貴方さえ苦しめられた疫病に、下っ端官吏風情が対処できる筈がない、とはこれつまり、暗に曹操の不手際もあてこすっているのだ。だが見る限り曹操は、これを寛大な態度で許す気でいるらしい。いやむしろ、歓迎しているとさえ見える。


 衆人の検分はまったく的を射ていた。


 この頃になると、曹操(かれ)に面と向かって口をきく者はいよいよ少なく、心許せる臣下と軽口を叩きあうことはあっても、君臣の礼からどうしても相手に一歩退かせてしまう。

 妃たちでさえ己の立場と子の未来に余念がなく、だからこうした当意即妙をえたやりとりを、彼はこの場で愉しんでさえいた。

 良いではないか、いまは酒宴の席ぞ。それも赤壁で揺らいだ威信を快復させる席だ。あらためて余の度量をみせる機会をくれた文姫(むかしなじみ)を可愛く思いこそすれ、邪険にするはずもあるまい。


「だがのぅ、軍紀は軍紀じゃ。余もこれと見込んで任じた者ゆえ残念でならぬが······しかしもはや執行令は出してしまっておる。この場にあれば如何(いか)ようにもとり計らおうが、もうどうにもなるまい」



(おそ)れながらッ!」



 琴箭は我にもかけず一歩にじり寄って懇願する。

 心底からの、呻きにも似た想いを、されど清澄なる言の葉にのせて。



明公(そうそうさま)は廐馬は万匹! 虎士は林を成すに! なぜただ疾速の一騎を惜しまれ、死にたらんとする者をお救いになられぬのですか············っ!」



 絞りだすかのような声に、満座は水を打ったかのように静まった。沈黙には同情の念がありありと滲んでいる。

 ややもあって、曹操が口をひらいた。


「······ところで。その昔、蔡家の蔵には、書物が山を成すほどであったと聞くが······中には珍書もさぞ多かったであろうの。

 今はどうかな?」


そらとぼけるような口調である。琴箭は内心奥歯を噛みしめる想いに耐えた。




「もうすぐ(しょう)


 自分はあくまでも馬、とばかり虎丸出しの恰好のまま清栄を乗せてゆく桃霞がいった。

 背にまたがる清栄も、そばを走る月塊もがあまりにも落ち着いているものだから、間違って行き合った人々もそうと気づかず、二度見してはじめてギョッと固まる。

 流石に人の目も増えてきた、そろそろ歩いた方がいいかしら、と清栄が考えはじめた時、


「お?」


ポンッ、と間抜けな音を幻聴したとおもうと、桃霞の毛並みが黒をとり戻す。

 足どり軽く駆けながらそのままフワリと宙に浮上する彼女のうえから、清栄は月塊にむかって手を伸ばす。


「悪ィな」


 月塊はつかむと、なんなく桃霞の背に跳び乗った。


 清栄は我知らずワクワクしていた。

 もちろんまだ父の助命嘆願がなったわけではない。だがあんな大事をのり越えたのだ、きっとすべて上手くいく。そう思わずにはいられなかった。

 このまま譙までいって、丞相閣下から父の免罪を勝ちとった母様に、彼をひき合わせたい。きっととても喜んでくれるはずなのだ。


 ふと、背後にかすかな違和を感じた。ついさっきまで己を包むようにあった温かみが······

 声をかけてふり返った。


「······月塊さま?」



微修正いたしました。

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