【完結】月琴別伝 十三
「············亡父は昔、朝廷より四千に余る書をご下賜いただきました。
なれど各地を彷徨ううち管理も疎かになり、放逸いたしました。手元に残りました物も僅かで、暗誦しうるものも四百篇のみにございます」
ほう、と座のそこここから声が漏れた。
「では······お主に何人か官吏をつけようではないか。写させよ、余も見てみたい」
ピクリ、と琴箭の頬に緊張が走った。
なんのつもりだ。チラ、と曹操の顔色を窺うが、冗談めかした彼の眼からはなにも読み取ることができない。
本気か、それともこちらの答えを誘引する呼び水か。
さしずめ酒の肴か、道化ね。
······いいでしょう、なるほど? しょせん女の学問は芸事あつかい。ならばなにも余人に手柄をかすめられることはない。
琴箭はすうっと新鮮な気を吸いこんでから言った。
「閣下がお望みとあらば、喜んで。
なれどお与えくださりますのなら、人ではなく、どうか紙と筆をお与え下さい。私自らがしかと認め、真草(真書・楷書)いかようにも、お望みに適うよう努めまする」
「······ふっふっふ、良かろう。では宴の興じゃ、なにか一篇書いてみせよ。誰か──」
では、と公卿のひとりが杯をあげていう。
「春秋、成公の伝を」
目の前に運ばれてきた机にむき直った琴箭は、ふーっと息を整え、すらすらと筆を走らせはじめる。あっという間に紙が、侍従のもつ四角盆のうえへ重なった。
「出来ました」
侍従から書面をうけとった曹操がざっと目を通すと、これを題をだした公卿へとまわす。公卿もこれを確かめ、最後には笑みとともにうなずいた。
「一字の漏れ、誤字もないかと。お見事にござる」
ハッハッハ、と曹操が大笑した。
「よかろうっ! 其の方に免じて、祀の死罪は免じてつかわす!」
「────ッッ! ありがとうござりますッ!! ありがとうござりますッ!!!」
侍従を呼び、ただちに董祀への死刑執行をとり消すよう急使をだせと曹操が明言する間中、琴箭は涙にくれて額を床に打ちつけながら、感謝をくり返し続けていた。
「······はっは、もう良いもう良い。それよりそんな形で我が殿から帰しては余の沽券に関わる。これからは冬じゃ、身にも沁みよう。
褒美に頭巾と足袋を授ける。これは大人しく受けてくれような? せいぜい温かくして励んでくれ、待っておる」
「重ね重ね、ありがとうございまする······!」
しかと礼をし、合わせた袖の裏でやっと息をついた。
これで救われた······董祀は救われたのだ。成すべきことは果たせた────
殿中から放心したように退出した琴箭に、いきなり横合いからでてきた人影が飛びついた。
「母様ッ!」
「? 清、栄······? おまえ、どうして······」
「桃霞姉さまに送ってもらったのです」
そう空を指され仰ぐと、遥か上空に黒い点がひとつ浮いている。
「それで、あの······」
いわれて視線をもどす。
おずおずと両掌にのせて差し出されたものをみて、琴箭はまた眼を丸くした。
それは、あの白筆。
「ごめんなさい! ごめんなさい! すぐそこまではたしかに一緒だったのです······」
うかつだった。
彼は言っていたではないか、時がくれば戻る、と。あの妖に嘘にされた真も戻る、と。
気付けたはずなのだ。
桃霞姉さまの仙力がもどった。
ということは、彼もまた元の姿へ還るということではないか。そして、彼も桃霞姉さまもわかっていて、それでもふたりは黙っていただろうことにも。
「清栄? 貴女······?」
あらためてみると娘は自分に負けず劣らずの恰好で、あちこち衣も破れ、傷まである。
瞬間、琴箭はすべてを悟った。
ごちゃ混ぜになった想いが溢れ、往来であるにも関わらず、ただ娘をつよくつよく抱きしめた。
「ありがとう······ありがとうね、清栄······っ」
「母様······」
懐中の清栄はいまだ複雑そうにしながらも、どこかくすぐったそうでもあり。
それでも最後には、すこしだけ大人びた顔でわらった。
そしてずっと、ずっと先。
三国時代の終わり。
蜀が滅び魏が滅び、晋が呉を降して天下を制する日。礎となったひとりの名将があった。
姓は羊、名を祜、字を叔子。
その清廉潔白な人柄と智謀で、敵将からも楽毅・諸葛亮以上であると認められた男。
羊家は代々が太守や重役を輩出する家であった。このなかに彼の父・羊衛と、伯父・羊秘という者があって、ふたりの妻がともに蔡氏の娘であると記録にのこる。
このどちらかが蔡琰──つまり琴箭こと文姫であった、とする説がある。
しかし、少なくともここに記された蔡琴箭が、いくら罪に問われようが夫を見捨てて、またも再縁などしようものだろうか。
であれば、あとはまったく別の蔡氏か、蔡邕の縁者でも別人──つまりはのこる彼女でしかあり得まい。
羊祜は十代で父をなくし、伯母である蔡氏に育てられたともある。
彼の伯母とはつまり、この蔡清栄のことである。
お読みくださり、まことにありがとうございました!
これにて「月琴伝」は、真の完結、といってさしつかえなかろうと思います。
楽しんで頂けたかちょっと不安ではありますが、本人としては、宿題をひとつやり遂げたように思っております。
かさねて。
読んで下さいまして、まことにありがとうございました。




