月琴別伝 十
それはたんなる弑逆心だったのだろう。
たしかに妙な気配がついていないでもないその白筆の「存在」を奪いとって、徹底的な絶望を人の子の顔に磔てやる。
蝦蟇妖はひと息吸うと、言った。
『【嘘】だろう? その筆はなんの力もないただの筆ッッ!!!』
シャンッッ!
夜闇を薙ぐ一閃の明滅。
たまらず瞼を瞑った清栄が目をあけると、白筆は跡形もなく消え失せていた。
「そんな······ッッ!!」
疲れ切り、ただ息をして吐く。前へと進める一歩が半歩になろうとも、その歩みを止めない。荒い息のした、蒼白になった顔をあげる。そうして膝に力を入れ、また立ちあがり進む。
もう一体、どれほどの刻がたったのか。このままでは······このままでは······!
体が疲れるほどにつのる焦りに、琴箭は胸の潰れる想いがした。
と、また少し行った先に、誰かが岩に腰をかけているのが見えた。とてつもなく久々に他者を見かけた。だが幾日か前にも似たような光景を目にしたような気もする。
一歩、また一歩と琴箭が近づいてくるのを認めたのか、人影は以前の者とは違う若い動きで立ちあがっていった。
『おう、随分ボロボロじゃねぇか』
なんだこの男、いやにぞんざいな口をきく。
「────」
『? どうした? 疲れすぎて呆けたか』
正直、本当にそうなってしまったのではなかろうか、とも疑っていた。だがこうして【彼】に先に指摘されたことで、自身の脳裏からスーッと迷いの雲が晴れていくのを琴箭は感じた。
「······妖絡みか。ずーっと変な気はしていた············そうかぁ」
天を仰ぎ、怒りとも諦観ともつかない溜め息を吐きあげた。そのままだらしなく驢馬の手綱を引きずりながら【彼】の前を通りすぎる。
「身体がある······夢ではないの? ううん。そもそも何でこんなに都合よく?」
「さぁてね。天の憐れみってやつだろうさ」
「は······アンタがそれを言う?」
フッと笑んで確信する、ああこれは【彼】なのだと。
それがたとえ幻であってもいい。膝にふたたびの力が戻る。
「ありがと······」
琴箭は立ちあがる。顔をあげると、いつしか歪められていた虚構の旅路の先に光がみえる。
『そうだ、またやり遂げりゃいい。人の足で、お前の足で』
けして振り返ることはない、充分だ。
琴箭は重くたれた一歩を、それでも確かな一歩を地に刻み、光へと向かった。
抜けた、と感じた途端、身体が【嘘】のように軽くなった。
目指している時はとても眩く感じたけれど、外はすっかり夜だ。してみると、と見あげた天には、いつもより大きくみえる気のする月が、半月のまま煌々と輝いていた。
ああなるほど、と独り納得する。とはいえ疲労そのものは本物だった。
琴箭は夜闇のなか、路傍の草原に倒れ伏した。




