月琴別伝 九
月光降る月夜の湖畔を姦しい金属音が乱し、火花が散る。
伸縮自在、強烈な拳代わりにもなる舌出しの奇襲をいなし、体勢不備のままアイコとばかり敵の身体を蹴りたてて、間をとった桃霞がヒラリと着地する。
馬鹿め、疲れて自ら間をとったな!!
これは好機と蝦蟇妖が息を整えた瞬間、するどい聴覚が異音を聴きつける。
地を蹴り加速する音?──そう、これは蹄の音だ!
······なるほど、そういう謀か、と蝦蟇は得心顔で嗤う。誘引するようにわざと大きく呼気し、喉を丸くする。やらせじと桃霞、バッと前へ出る。
妖、あえて術は使わず、大息によって虎を怯ませ足止めすると、やおら右へと向き直って隙をついて突進してくる馬へと備えた。
策を看破! 完全な読み勝ち! なにより頭脳で相手を上回ることを愉しみとする儂にとっては、まさに至福の瞬間だ!
──だが。
「なッッ!?? 馬ァッッッ?!!!」
──そう、馬だ。
いや、ただしくは馬だけ、だ。
意に反して彼をかすめたのは、邪魔だとばかり頭越しに過ぎた馬だけ。その背に乗ったままの鞍はまったくの空座だった。
間髪入れず桃霞が躍りかかる。あわててむき直った蝦蟇。その刹那、彼の左脇をなにか小さな影がかすめた。
「!!」
清栄だ、清栄が硬直した相手の懐へと飛びこんだのだ!
桃霞と、まるで直前にはかったかのような呼吸での一手はまさに決着の妙手。完璧な間合い、完璧な符合。これに勝るものはなかったろう。
奪った、勝利だ!
「──くッ──!」
逆らう身体に見切りをつけ、妖は絞り出す。何を? 瞬時の閃きにして、舌に劣らぬもうひとつの奥の手。
『ゲェェ────────────ッッッ!!!』
吐いた。痰を、土色をした粘液の塊を!
まったくの存外だった桃霞はこれを正面からもろにくらい、墜落する。
ああ、これに気をとられた清栄の指がわずかに、ほんのわずかにすべって狂い、袋を掴みそこねた。
「ゲッヘッヘッヘ、危ねぇ危ねぇ············」
さすがに冷や汗をかかされた蝦蟇妖は喉を軽く押さえながら、勝利の確信をえて哄笑する。
「なるほど、これを企んでいたかぁ」
だが、と息を整える。
「儂の勝ちだ」
ゴソリと宝印をとりだすと、今度こそはもう誰に奪われないようゴクリと呑み込んだ。悔しいかな、清栄にできたことは見ていることだけだ。
『お宅は今でこそ珍しい虎であるが、じつはそうではあるまい。かの姿は仮初のものであり、まやかしであり、詰まるところ【嘘】だ』
「············っ」
とりたてて心を読まれるだの、明確に痛所を突かれたという訳でもない。にもかかわらず、清栄の腕のなかにある桃霞の身体からさらに氣が抜け、黄に黒縞という変哲のない毛色へと変わる。
「ゲッヘッヘッヘ」
蝦蟇妖は鼻血を滴らせながら下卑た嗤いをもらし、一歩ずつ恐怖を与えんというように、ノシリ、ノシリと寄ってくる。
「これで儂も、仙殺し······一躍大物だ。人の童を呑むのも初めてよ。さぞやツルリと、よい喉越しなのであろうなぁ」
ゾワリ、と背骨から冷風が全身にはしるのを清栄は感じた。
これは、死? そう、死だ。他の誰でもない、自分の、桃霞姉さまの。
父の濡れ衣を晴らさんと、母の心痛を除かんとの想いだけでここまで来たのに、人外の理に引きずり込まれて、あげくの死だ。
こんな、何もない所で、誰にも助けられず、誰をも助けることが出来ず、あんな奴に生け呑みにされる。
歯の根が震え、音を立てているのがわかる。音が、時が詰められたかのように収束して──そして············
「ガッ」
それはただの苦し紛れ。偶然の産物。
それでも抗う桃霞の爪が、腰を抜かしたままの清栄の身体から胴巻きをひきはがす。中身がバラリと地面に落ちて散乱し、そのうちのひとつの物が、彼女の泪で濡れた視界にはいった。
これは······筆入れ? 否!
「!!!」
とっさに包みからそれを取りだす。
白筆! 母が護りとし、匈奴から漢へと一家を連れ戻した、神秘なるものの結晶!
「ちっ、近づくな!」
清栄はわずかな光源にも照り返る真珠の柄を両の手で握りしめ、かざす。
「これは凄いものなんだから! 凄い力を持ってる! アンタなんかの術なんて、この力の前には役立たずよ!!」
「あァん?」
蝦蟇妖は間の抜けた反応をして立ちどまる。そうしてしげしげと白筆を眺め、とたん吹き出した。
「ゲーッヘッハッハッハ······ゴベッ、ボッ······! コ、コイツぁいい! いいぞお嬢ちゃん! そな······そんな······ただの物に······ましてや筆なんかにっ······な······何が出来るって??」
震えながら筆を振りかざす清栄をひとしきり嗤うと、蝦蟇妖はやっと涙を拭った。
「そ······そんなに言うなら、いいだろう。いまの俺様の術のほど、もういちど見せてやろう」




