月琴別伝 三
おかしい、絶対におかしい。もう七日はたつというのに、母からはなんの報せもない。
ここ潁川から譙までたしかに距離はある。とはいえ、とっくに着いていておかしくはないはず。説得に時がかかっているのか、あるいは··················
清栄は自室で焦れながら唸った。
「──ッッ、もう駄目だ、我慢できないっ!」
「まあ、清栄さまっ!」
なかば驚き、なかば非難といった声をはいってきた女中があげるが、そんなのはお構いなしだ。
清栄は綺麗な衣をポイポイと脱ぎ捨てると、散らかしたまま行李──竹や木で編んだ容れ物──の底から、平民の子に相応しい衣装をひっぱり出す。
ときどき桃霞姉さまとこっそり家を抜けだすおりに使っているものだ。「まあ!」と、さらに声をおおきくする女中にバレてしまったが、いまはそれさえ憂いている場合ではない。
着替えと、なにがしかの役に立つだろういちばん綺麗な衣を雑にたたんで布地にくるむと、小言がとんでくる前にサッ、と室をとび出す。
「まったく······こんな時にかぎって姉さまいないんだから······!」
廊下を急きながら清栄はこぼした。
中原にきてこっち、彼女には新しい姉ができた。
いや、正確には姉貴分······いやいや、彼女は母のことを姐と呼んでいるので、より正確には「叔母」ということになるのだろうか。もっとも、以前いちど呼んでみたところ、頬をむーっとさせ、「なんかヤダ」のひと言で却下、禁句となったが。
その正体はなんと天仙──つまりは仙人で、しかも天に住んでいる女人だ。なのだが、けっこう頻繁に天降っては家でゴロゴロし、遊んでいく。天にいっても鬱憤というやつは溜まるとみえる。
まあこちらとしてはよい遊び相手が増えるし、彼女と一緒なら、と母もふたりでの遠出······二日までとキツくいわれているが······を許してくれるので、その来訪はやはり待ち遠しい。
それもいまは、「お仕事」といって天へ帰ったっきり。約束してくれた期日もとっくに過ぎている。
厨にとび込み、慣れた様子で干し飯やらの保存食を小袋に詰め、水筒がわりの青竹筒に水甕から水を汲む。
母様は馬弦たちと別れて以来、すこし変わってしまった、と思うことがある。極度に親しい者を失うことを恐れていて、まるで我が袂のもとに入った者全てを護らんとするように、必死になって護ろうとする。それも時に怖いくらいに。
結果的にこの態度が、嫁いだ董家の人々や使用人たちの敬慕をあつめることにはなっているけれども、目の前にいる自分のことが見えていないのでは······とも思えて哀しくもなるのだった。
それが今回はよりにもよって夫──董の父様なのだ。気も狂わんばかりだったろう。
自分も父様には、釣りや狩猟に連れてってもらったりと良くしてもらっている。実の父でも、ましてや漢人でもないのに、それを容れてくれるあったかい人だ。私だって失いたくない、殺されるなんて論外だ。
バタバタと厨をでたところでハタと足がとまった。
あるいは人気の薄れた邸内の暗がりが、清栄にすこし冷静になるよう囁いたか。
とにかくこの時、なぜだか無性に怖くなった。
そういえば独りでの外出、それも遠出なんて初めてだ。そうだ······桃霞姉さまさえいないんだ············。
自然、奥の間へと目がむいた。
キイッ、と音をたててあいた扉からなかを窺うようにして、清栄は室内へはいった。
ここは母、琴箭の間。いつも作業をしている室である。普段ならなんてことはない、気安く出入りできていた場も、主が不在ともなれば一気に神聖さが増したような気がして、すこしだけ気後れがした。
閉じられた窓のむこうでカサリと、落葉らしきものが風にさらわれ影をのこして過ぎる。秋の白い陽を寂しげにうける卓のうえは、それでもほんのりと明るかった。
そっと寄って靴をぬぎ、段をあがって膝をおる。
文机のうえには、小綺麗に整えられた文房具がならんでいる。中央には紙や竹簡ののるであろう間があいて、その左奥にはまっさらの竹簡が三巻ほど山に積まれている。右奥にはおおきくて丸い黒硯と墨のはいった小袋。
そして──白筆。
不可思議な虹の光沢をやどす筆が、まるで寝床のうえへ寝かしつけられているふうに、丁寧に筆包みのうえにおかれてあった。
「············」
清栄は目をみはった。なんと綺麗な筆か。
いちどならず触らせてくれと母にせがんだが、娘には甘めの母も、これだけは今にいたるまで許してはくれなかった。
『いつか、貴女が相応しい教養を身につけたらね』が決まり文句だ。
「──」
なんだかいけないことをしているような気がして、鼓動が高まる。そっと指をのばして触れても、不思議な力を宿すと聞かされている筆には、とくに嫌がるそぶりもみられなかった。柄を撫でると、かならずしも滑らかではない表面が、よく磨きこまれた木細工のような凸凹の感触を指にのこして気持ちがよい。
「······お守りになってほしいの。一緒にきて」
清栄はいうと、白筆を筆包みのなかへ入れ、胴巻きへとしっかりしまい込んで室をでた。




