月琴別伝 二
はて、誰ぞに呼ばれただろうか。
蔡清栄は摘んでいた野草の群から頭をあげた。
当年とって八。六つ七つでこの中原へとやって来てから、すこし時がたった。こしらえは漢のものに染まり、見てくれはすっかり良家の娘だ。
母よりもすこし濃い眉に、ながい睫毛をもつおおきな眼が、顔立ちに将来の勇ましい美しさをにおわせる。
いつかの誰かのように、すこしだけ赤みをおびた髪を頭のうえでお団子ふたつにまとめ、そろそろ秋も本格的になる頃のことで、奢侈にならぬ程度には厚着をさせられている。
だがその衣の裾も靴も、まるで農夫のように土で汚れているところは、じっさい農夫として畑をいじっていたからに他ならない。
むろん童のことであり、はるか平原で、馬とともに暮らす民の出自である彼女にできることは限られていた。
まさに真似事。それでも本人は楽しんでやっており、荘園で働く使用人たちに時おり迷惑をかけながらも、一緒に頑張っているのだった。
そんな彼女の鷹のようにするどい視力が、畑の畔を駆けてくる自分つきの女中をとらえた。彼女はこけつまろびつしながら、こっちに何事かを訴えるかのように口をぱくぱくさせて駆けてくる。
ふ、と悪い予感が胸をよぎった。
『母者っ!』
おもわずついて出た匈奴語とともに室内へとび込んできた清栄を、琴箭は青ざめた表情でみつめた。童女はハッとしておのが口許を押さえる。
この清栄、そもそも匈奴にあった頃から琴箭とは漢語で話していたために、言葉についてはあまり不自由はない。だが出自を隠すため漢語のみをつかうよう、帰漢後は母からそう言い含められていた。
以来、使われなくなった匈奴の言葉は次第に脳裏から薄れつつあるのだが、なにかの拍子にこうして唇からとび出してしまうのだった。
そのため、話そうとした言葉をいったん頭で整理してから喋る癖がついてしまったが、まあ、冷静になって考えてから発言をする、という意味ではそう悪い癖ではない。
いつもなら注意がとんでくるであろうに、よほどに余裕がないのか、母は満足に口もきけないようだ。この様子に、胸中の予感が一気に膨らんだ。視線が胸元にある書状へと吸い寄せられる。
「母様──その書状、いかがされたのですっ?」
「清栄······ああ! 清栄ッ! 父上が······父上がッ······!!」
「父様?! どうなさったのです!?」
清栄はあわてて母に駆け寄ると、たちあがろうとしていた弱々しい身体を支えるように抱きすくめ、膝をつく。それまで挙措を失っていた琴箭も、おおきな瞳でじっとのぞきこんでくる彼女をみるうち、すこしは落ち着いたらしい。
「······父上が······このままでは死刑になると────ッ」
「えッッ?!!」
清栄は驚いて母を見返した。
「──行かなくては······っ」
ハッとして琴箭はたち上がる。そうしてバタバタと手足を動かして外へと向かった。
「行く? どこへですか!」
「譙だ! 丞相閣下におすがりして刑死を取り消してもらうのだ!」
「──清栄もっ······」
「ならぬ! 下女たちと待っておれ!」
いうが早いか支度をすませると、下男にひかせてきた驢馬にまたがり、ただちに出立したのだった。
書状には、屯田受け持ちの民に疫病が発生し、あげく散逸され、深酒をして御役を損なった、とあった。
そんな馬鹿な。そりゃあ、あの人は酒に過ぎる癖はある。以前のお役はそれでしくじったと彼の実家のものがこぼしていた。良家の出の者にしては少々ずぼらで、それがために再度のお役にありつくのも時がいった。
といって、暴れてくだを巻くというでなし、こう言ってはなんだが上戸としては好い部類である。鷹揚な態度はひとに安心をもたらし、民にも慕われることこそあれ、嫌われることはない。
そしてそんな彼だからこそ、清栄もろともに押しつけられた自分を受け入れてくれたのだ。
はじめは、あの曹操でさえ眉間を抑えた清栄の問題。コブつきでの再縁話。およそ良家の者でこれを丸ごと呑めるものはおるまい。
彼も自分が正直に告げたとき、散々悩み、悩み倒したあげく、それでも首を縦に振ってくれた。
いらい清栄にも目をかけてくれ、最近は本当の父娘のようだと周りの評判もある。その人としての温かみこそを、琴箭は愛した。
このまま董祀を喪うなんてことにでもなれば、またもや大切なものを理不尽に奪われることになる。これまで何度あった? 何度?
もうあんなのは絶対に御免だ!
驢馬を限界まで急かしながら道をいく琴箭の姿は、しだいに乱れる髪をいとうでもなく、鬼気迫る貌を隠すでもなく。
疾駆する様は、道を行きあった人々には異様に映ったことだろう。だがそんなことは夫の身に比べれば微塵にも気を払うに値しないことだ。
「············?」
いつから意識していたのか。
あるいは、それは唐突に現れたかのようにも感じられた。
道端の木陰に、老爺がひとり座っているのがみえた。地面に腰を下ろし、杖を肩により掛けている。
「────」
どういう訳だ。そんなことに構っている暇などないのに。その老爺を視界から除くことが出来ない。
とうとう琴箭は、目前で馬脚を停めさせてしまった。
荒々しく息を整える驢馬の喘ぎを聞きながら、そんな己を琴箭は頭の隅で不思議に思った。
※董祀が屯田都尉をつとめていたタイミングも、死罪を言い渡された原因も、すべては書き手の妄想です。
琴箭の帰漢後、できるだけ年を経ない機会を探したら、たまたま曹操の列伝「武帝記」に「芍陂に屯田をひらいた」という記述をみつけて、まんまと乗っかったに過ぎません。
蔡琰の列伝をみても、董祀は「屯田都尉であったが法を犯し死罪を言い渡された」としか載っておらず、どのくらいの期間、何処で勤めたかもはっきりとはしません。
わざわざ書かなかったところをみると、よっぽど不名誉なことをやらかしたのかも······
いったい何をやらかしたんだ、董祀さん。




