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【完結】月琴伝  作者: 雲野 蜻蛉
月琴別伝
391/403

月琴別伝 一


まってました! 暦の上では立秋であります。


まだまだお暑うございますが、個人的ケジメの小説その二、いきます。


時間軸としましては、「月琴」の最終部の前。

琴箭が帰国して二年後のこと。

季節の頃は旧暦の秋······



 天下の南東、揚州。

 巣湖にほどちかい暗き洞の奥底。

 ジメジメとした、おそらくは大勢の者にとっては不快なる環境も、その化物にとっては快適そのものであった。

 おおきな口をばくりと開き、ズルッ、ズルッとなにか細長いものを淀みなく流しこんで、喉から呑みくだしていく。

 蛇だ。

 ゆうに六尺(一メートルほど)はあろうかという蛇が、あたかも麺のように頭から呑まれていくのだ。


 ゴクン、と最後の喉を鳴らして、怪物は満足そうに息をつく。そうして、岩の座にあぐらをかいたまま、懐からまたゴソリとなにかとりだした。

 淡水色、あるいは薄緑に発光する岩壁に持つものをかざしみる。

 湿った指のあいだにあるのは、揺らめく水面をそのまま閉じ込めたかのような──実際、表を青波がゆらめきながら滑っていく──大人の片手ほどもある宝印だ。


「とうとうやった······盗ってやったぞ。これで儂も仙人に負けぬ············今度こそ······あの縄張りは誰にも渡さぬぞ!」


 その化け物は、ながーい舌でベロリと口周りを舐めあげると、先程の蛇とおなじように、宝印をひと息に呑みくだした。




 建安十四(二〇九)年、秋。

 揚州、芍陂(しゃくは)

 この地に前年、疫病と孫権・劉備合同軍によって赤壁で苦杯を舐めさせられた曹操が拓かせた「屯田(とんでん)」があった。

 両敵へ早急の対策を余儀なくされた彼が、手痛くやられた水軍のたて直しの次に行ったのが、この施策であった。

 狙いは、同地での食糧自給力を復興させることだ。


 そもそもがこの屯田策。

 ふるくは前漢の武帝が、辺境前線での糧食確保のために、兵士に田畑を耕させるなどいわば外地にあって行われる場合がもっぱらであった。

 しかし曹操はこれを、戦乱で荒れた内地で、さらに戦禍にあった民の手によって行わせた。試みは本来自力のある領土を着実に潤し、恩恵は許都を中心にして広がりつつある。

 将来を見越したこの策は、やがて訪れる三国鼎(さんごくていりつ)立の最中も司馬懿らによって継承され、中原をまもる陰の力として、ついに国を支えきるに至る。



 まあ後の話は置いておくとして、民の側にとってもありがたい仰せだ。秋空のもと、みなはともに額に汗して働いた。


 これを油断なく巡察している男があった。

 齢の頃は三十路すぎといったところか。乗馬して供をひきつれる様は意気揚々、差配をはたさんという気力に満ちている。

 髪は黒々とし、髭はなく、見目には若い印象がある。どことなく育ちの良さそうな、通った鼻筋の眠たげな目をした男で、具足などはつけておらず、衣に胴巻き、脚絆(きゃはん)といった恰好。腰には剣をひと振り、飾りとばかり提げていた。

 役職名を屯田都尉。

 屯田民を導き、政策をとりしきる責任者のひとりだ。



 その男、董祀(とうし)は、黙々と地ならしに勤しむ者らをみて、満足げに幾度もうなずいた。部下からあがる報告の声もあかるいとなれば、さらに気分は爽快である。


「順調です。おもったほどの苦労もなく、これならかならずや丞相閣下もご満足なされる結果が得られるかと」


「うむ。なにせ肝いりのお策だ。従う我等も心してかからねば。

 ············ん?」


 ふとした拍子に、目が吸い寄せられるように止まった。

 みなが働くなか、昨日苦労して掘り起こした大岩に腰を下ろし、休んでいる者がある。老爺だ。



「やあ爺様、お疲れか?」


董祀はこれを責めもせず、気さくに声を掛けた。


「なにもその歳ではりきらんでも、誰ぞ若い者をよこしてはどうだ?」



 老爺は笠をかぶったまま馬上の彼をみとめると、いくらか歯の抜けた口をニカッとやった。


「これはこれは、都尉様。なに、そんな者がいますりゃ、とっくに申しつけておりますんでな」


 杖に両腕をあずけ、フーッとひと息ついた。そうしてゆっくりと、老人らしい緩慢な動作で周囲を見渡した。


「まったく有り難いことで······曹公はわしら民のことも気にかけてくださる」


「まったくだ。いまにこの畑もまた、見事な実りをつけることだろう」


「ただ······」


と老爺はきゅうに眉を曇らせた。


「南では孫家が虎視(こしたんたん)眈々と隙を伺っております。つい先頃も合肥(がっぴ)をめぐってひと戦あったばかり。

 耕せど耕せど············いつか報われる日がくるのでしょうか············」


 ──これもまた、紛れもない民の本音か。

 ただそれがわかっても、役目がら董祀には素直にうなずいてやることは出来ない。しかもこれから皆して頑張っていこうという、大切な、勢いをつけるべき時期。このような姿勢を正し、みなをまとめてこその、このお役である。


「······爺さん、それを役人(わし)の前でいうのは感心しないな。それもこれも天下を(つくろ)わんがため。ここはひとつ、微力ながら漢のため、丞相閣下を皆でお支えしようではないか」



『真ですかな?』



 キョルッと老爺の顔が持ちあがり、笠のしたからのぞく形容しがたい双眸(そうぼう)が、彼を射すくめるように捉える。


『真に曹公におすがりすれば、この地は豊かになるのですかな?』


 これはどうした訳だ? 目が逸らせない。

 老爺は声を荒げている訳でもないのに、その言葉はするりと心の内側へとはいってくる。気づけば彼だけではなく、周囲の者がすべて、手を止め足を止め、彼の声に聴きいっている。

 人が棒のようにたち尽くす異様な光景のなか、その老爺はニマリと、横幅豊かな口許を歪めた。




 おかしい、絶対におかしい。

 その書状は、夫からの近況報告であるはずのものだった。そうでなければならない。

 蔡琴箭の心胆は一気に、冷水を浴びせられたように締まった。

 であるなら、何ゆえこれを届けた者が董家の下男ではなく、夫の友人の手の者であったのか。

 竹簡の表には役印が押され、この巻物が何がしかの裁可をへて出たものであると告げている。震える指先で大急ぎに紐解き、横へもち替えて文面に目を走らせる。

 記されていたのは紛れもない夫の字跡で、されどその内容は、とても受けいれ難いものだった。

 理解できない──いや、聡明な彼女のこと。できない、ではなく、頭が理解することを拒否しているのだ。

 五度読み返して茫然自失とし、一気に崩れ落ちたかと思うと、書状を胸に押し抱いて号叫した。


 文面いわく、


『こたび、無念ながら罪をえて、刑死をたまわることと相成り──────』



お寄りくださり、ありがとうございました。


もう少しだけ彼らにお付き合い頂けますれば幸いです。

基本、毎日二部ずつ更新いたします。



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