月琴別伝 四
許都までは最短でもおよそ五十里(二〇キロ)はあろうか。近いといってもそれだけの距離があり、しかも童の足である。元気に任せて道中二度休んだきりで歩き通しても半日かかった。
目的とする地は、母がむかった譙ともうひとつ。父の任地である揚州は芍陂となる。
清栄はすこし考えて、芍陂のほうを選択した。
いまさら母に追いついてもただ迷惑をかけるだけだし、ならば家で大人しくしていた方がまだマシだ。
さらにこれは考えたくはないが、万々が一、母にも不測の事態がおこって譙までたどり着けていないのだとしても、自分が代わりになることなど出来るはずもない。なにせ面会を請う相手は、大漢王朝の丞相様なのだ。どうして一介の民、それも童が許されよう。昔からの繋がりのある母だからこそ、許される余地があるのだ。
ならば向かうべきは、父が理不尽な死をたまわることになった原因の芍陂のほうだ。いかに母とて、情義だけで偉い人を説得しきれるものではない。すこしでも現場の情報があれば役にたつかもしれぬではないか。
ではなぜ、いま許都へ向かっているのか。
ひとつには許都が揚州への通り道にあることで、寄り道というほどには当たらないこと。
さらにもうひとつには、ちゃんとした考えがあったからだ。
それもとっておきの妙案が。
思いたったのが朝方で、いまはもう陽が沈みかけている。そんな時分になっても城内は賑わっていて、人の往来ひっきりなしだ。それも当然か。許都はいまも漢の皇帝陛下がおわす、れっきとした都。漢という国の中心だ。
行きあう人に押され戻されしながらも、清栄はその隙間から、必死に建物へ目をやった。そうしてとうとう一軒の屋敷のまえへとたどり着いた。
その家は大通りに堂々と門を構えていた。屋根瓦の軒下にかかる看板にはでかでかと、『老盤商店』と、黒地に赤の大筆で記してある。
店もそろそろ仕舞いの刻限なのだろう。下男たちがせわしなく動きまわっている。
声をかけ、ぺこりと頭をさげると、清栄は来訪の意図をつげた。
以前にいちど訪れた時も思ったことだが、この屋敷は表からではうかがい知れないほどに奥に向かって広い。いや、店構えも充分に立派ではあるのだが、それにしても広い。歩いているとこちらの感覚のほうがおかしくなりそうだ。
ありがたくも主人とはすぐにでも会えるとの返事で、奥付の女中らしき女人の先導で、彼の待つ間へとむかう。どういうわけか、その女中は自分をみてひどく驚いたように目を丸くしていたのが不思議ではあったが。
「旦那様。お客人をご案内いたしました」
「やあご苦労、お入り」
声がして扉が開かれる。女中にうながされて入ると、奥の朱塗りの卓についていたこの屋の主人、盤子虎がぬうっと屹立した。
本当におおきい。とにかく背が高い。
董の父様よりも、故郷の勇士らよりも。いま世に名を成している英雄豪傑と比べたって、こうも高い人はいないのではなかろうか。きっとこの屋の奥の広いのも、この人に合わせてのことではないのかしら、と清栄は思った。
とにかく、柔らかな淡色の朱衣に整った容貌、優美な所作と如才ない笑みがなければ、近づこうとさえ思えなかったろう。
清栄はぺこりと礼をとると荷をおろして、勧められるがまま、朱卓の席へとよじ登るようにしてついた。すぐに羹の椀に箸、飲み物が運ばれてくる。
これをみて思わず生唾をのんだ。お腹はすっかりぺこぺこで、喉もカラカラだ。しかしぐっと堪えた様子をみて、盤子虎──盤の大旦那は声をだして笑った。
「まあおあがりなさい。母上とちがって、随分と黙りなのだね。話ならあとからゆっくりと聴こう」
「なるほど」
もてなしの膳を平らげた清栄の話をあまさず聴いた盤の大旦那は、とっくりと頷いた。
「それで揚州まで往くのに、私の力を借りたい、と?」
清栄はうなずいて身をのり出す。
「お願いします、一刻を争うのです。
馬は父上のものだし、農事につかう驢馬は母上が乗っていってしまったし······それに都まで歩いて思い知りました。私なんかの足じゃやっぱり絶対に間に合わない!
旦那様は不思議な術を会得しておられると、桃霞姉さまからきいたのを思い出して、それで······」
ふむ、と盤はすこし困ったように笑う。
「まあ、知られてしまっているのなら隠す意味もあるまい。君の母上ともすこしは縁のあることだし、父上の命もかかっているというのなら······」
「では!」
「ただ」と盤子虎はぴしゃりという。
「私に『特別な頼み事』をする場合、かならず代償、を支払ってもらうことになっている。いちおう、ここは商店なのでね。それと今後一切、私の秘密に関して口外せぬこと。これが条件だ」
清栄は気圧されながらもうなずくと、席をおりて荷の中から綺麗なほうの衣をとりだして、盤の前へとおいた。何かの足しにとおもい持ってきた、特別な座へでる時の一張羅だ。
「ごめんなさい、いまはこれしか············」
「──この衣は、君にとって大切なものなのだね?
よし、では受けとろう。ただしこれだけではまだ足りない。
今回こちらが頼みを聞く代わりに、将来ひとつ、つぎは私の頼み事を聞いてくれると約束してほしい。その時までに、母上からも学んで、たくさん研鑽を積んでおくのだね」
では、と盤の大旦那は席をたった。




