【六章完】かくて轍をいく
すべては終わりを告げた。
ここに、天仙境による王朝交代劇の幕は降りたのである。
麻姑たちと別れた琴箭・馬弦親子は、盤子虎に南匈奴へと送り届けてもらい、ひとまずの帰郷を果たした。
そこで待っていた遣使団の面々に、大喜びで迎えられたのは言うまでもない。秦湧などは心底ほっとしたらしく、片時も離れようとしない清栄を抱いた琴箭にむかって、深々と礼をしたものである。
去卑が彼女らを止めることはなかった。
相変わらず途切れ途切れの発声、虚ろな眼差しで、琴箭が漢へと戻ることを追認した。
「······いけ······私の命があるうちに············行ってしまえ······」
これが彼のかけた最後の言葉だった。この後程なく、彼も没することになる。
──彼の目指した野望はたしかに潰えた。
しかしその芽は絶えることはなく、やがて甥、於夫羅の曾孫にあたる劉聡によって叶えられる事になる。
が、それはまだ百年も先の史実である。
あらかじめ整っていたこともあり、出立の支度は瞬く間にすんだ。
出立の朝。
蔡琴箭はなじみの漢人や、後宮の女人たちに見送られ、車の前にたった。
そう。遣使団が連れ帰ることを許されるのは、琴箭ひとりだけ。漢へ、故郷へ帰ることはすなわち、他の者の縋るような瞳を振り切ってゆくことに他ならない。無論それは、見送りの列の最前にならぶ息子、馬弦であっても例外ではなかった。
幾度迷ったかわからない。
いっそ残る、とさえ言いかけた。たとえ秦湧らがそれを許そうはずもないことが判っていても。
せっかく帰れることになっても、まだ幼い子やら知己らを見捨ててゆく。どうして自分だけがと、また呪いかけもした。
だが苦しむ自分に、馬弦はいったのだ。
どうか月塊を連れて帰ってあげてください、と。
馬弦は袖をあわせ、漢式の礼をもって、いま去りゆく母へ贈る。その顔は、いつの間にか離れた時よりもずっと逞しい。
「ここへ帰ってくる折も、色々迷いました。
けれど僕は······私、馬弦は、己として、母上の息子として、この地で生きていきます。恥じられぬよう、二度も頂いた、この命を誇りとして」
たまらず琴箭は彼を抱きしめた。
馬車の乗り口へと足をかける。だが最後の一歩がなかなか踏みだせぬ。
「蔡殿、お早く······」
人の親として急かしたくはないが、少しでもはやく出立もしたい。秦湧が遠慮がちにつぶやくのをもう少し、と制し、琴箭はまたも馬弦へと振り返って問う。
「弦······清栄は? まだ見つからぬか?」
娘が。清栄の顔が今朝からみえない。
昨夜散々泣きつかれ、どうか連れていってくれとせがまれ、ふたりして泣きはらした。
それでも、王の娘は一族のもの。
いくら本人が泣こうが、琴箭が乞おうが、去卑も秦湧もこれを許すわけにはいかなかった。
粘ったが、ついに琴箭は馬車へと乗せられた。
悲痛な面持ちの彼女を、馬弦は励ますように努めて明るい顔で仰ぐ。
「ご案じめされますな、母上。幼いながら、賢い清栄は判っております。
お任せ下さいませ。私が母上の分も、きっと妹を護ってみせますゆえ」
自分とて幼いことには変わらぬ息子にそう言われては、琴箭も辛いながら笑みを返すしかなかった。
「······それと。ささやかですが、車に糧食を追加しておきました。私が用意したのですよ? 道々お召し上がり下さい」
ゴソリ、とうごく麻袋を視界の端に捉えながら、馬弦はすこし悪戯っぽく笑む。
「出立!!」
無情にも号令がかかり、ガコン、と車が揺れ、ゆっくりと動きだす。
馬弦はいつまでもいつまでもこちらを見つめ続ける母の姿を、眼に焼きつける想いで見送った。あの麻袋が、せめて太原へ近づくまでは大人しくしてくれることを願いながら。
ひとつくらい、そんなことがあってもいいでしょう?
天よ。時の流れの懐よ、どうか深くあれ。
「さようなら、母上············さようなら。月塊······」
蔡琴箭は、のちにこの時の光景もまじえた詩を、ふたつ、遺している。
後漢朝の末、董卓の台頭の頃より筆を始め、彼が連合軍に迫られて長安へと遷都したこと。
その際に匈奴に囚われた幾多の人らとともに北の地へと連れ去られ、遠き地で故郷や父母を懐かしく想ったこと。
幸運にも自分は許されて帰ることが出来たけれども、その際に幼い我が子や、ともに捕まった人達を見捨てるように去らざるを得なかった苦しい胸の内。
帰り着いた故郷が戦乱で見る影もなく荒れ果てていたことへの悲憤などが、率直な言葉にのって痛烈に伝わってくる。
十年後。
ザグリ、と馬弦は懐かしき地面の感触を踏みしめ、顔をあげて白い息を吐く。
空はどこまでも蒼く、眼前にそびえる偉大な峰々は、あくまでも白い。
かつて訪れた時、隣にいた者の姿を思い浮かべる。
「······来れたよ、月塊。今度は、僕ひとりで······」
厚くした懐から革袋をとりだすと、そっと、大切にしてきた預かり物を抜き出した。
それは、黒い鎖飾り。あの日、盤の大旦那から託された物でもある。はまっていた鍵の宝珠はすべて失われてしまってはいるが。
高々とかざし、ひと息おおきく吸って、彼は叫んだ。
「さあ参ったぞ! ふるき朋よッッ!! 約定どおり、今日、ここに君へと返さんッ!!!」
とたん、ビュウッと氷風が吹き寄せ、瞼をさらう。ふたたび眼をひらいた馬弦の前には、一頭の美しい雪豹の姿。
馬弦は怯える馬を落ち着けると、粉雪が輝き落ちるなか、しずかに座して待つその獣へと、ゆっくり歩み寄っていった。
馬弦が王になったかは、定かではない。
人によっては、仙になって天へと昇った、という話まである。
建安十二(二〇七)年、晩秋。
蔡琴箭、故郷へかえる。




