【最終部】月琴伝
時は滔々と流れゆく。
漢が滅び魏がたち、魏も滅んで、世は司馬氏の晋の御世。
蔡家の文書がおおくとり置かれた書庫、蔡家文庫のなかを、ふたりの男が右往左往していた。
ひとりは文庫の管理を仰せつかった役人で、いまひとりは、明らかに文人の官吏であり、身なりからもまずまずの身分であることが判る。歳がいなく、童が玩具を貰ったかのようにキラキラと瞳を輝かせ、文庫の中のものを物色している。
「しかし、その史書を書くのに、この庫の書物がお役に立つのですか?」
管理者の男は曲げていた腰をのばし、とんとん叩きながらいった。
「言ってはなんですが、先の当主の蔡文姫様がある程度復巻させたとはいえ、失ってしまった物も多うございますよ?」
然るべき所になら、もっときちんとしたものもあるでしょうに、と結ぶ。
「なんのなんの」
男は嬉々としてかえす。
「そんな処の物はとっくに当たりました。
私がいま求めているのは、その時を生きた人々の、地の息吹を遺すものなのです。その点、この庫は興味がつきませぬよ」
それはそれは、と、自分の仕事が中央官吏の役に立つのだとしって嬉しく思う役人は笑う。
と、その身体がどこぞの棚へ当たりでもしたのか、上の方に隠れていた書が、まるまるドサリと床に落ち、盛大に埃を舞い上げた。
「申し訳ござらぬ。書は無事ですか?」
「いや何、大したことはない、大丈夫。
と、これは見た覚えがない······何々··················?」
男は落ちてきた書をシャラシャラと紐解いて、庫の壁にあいた明り窓よりはいる白い光にさらして、しばらく目を走らせた。
「お役に立ちそうですか?」
役人に問われ、男はフッ、と笑って首を振る。
「いえ、これは············なんとも奇々怪々、荒唐無稽な。妖? 仙人?? どうもこいつだけは、他とは趣が異なるようですな」
男の名は、陳寿。
劉備や諸葛亮のいた蜀漢ののち、晋へも著作郎(史書編纂の官)などとして勤め、この後しばらくして、魏志・蜀志・呉史の三史書──そう、三国志を世に遺すことになる人物である。
陳寿は眉唾ものの書にいささか嘲りの風をもって、さらに日に照らしみていたが、やがて微笑とともにそれらを棚へもどす。
持ち出し用に積んでおいた書箱をかかえ、いそいそと戸口へとむかうのだった。
陽はあかるく暖かく、窓からはいる風もやわらかい。どこの園のものがのったか、甘やかな香りが鼻孔をくすぐる。
琴箭は最後のひと文字をいれ、筆をおく。
水をいれた皿に毛先をさっとくぐらせると、白筆は嘘のように墨を解き、純白の毛並みをとり戻した。
カタリと硯に置いて、ふぅーっと、すこし長めの息をつく。
史書の編纂、曹操と約束した失書の復旧の合間に、こうして続けていた書が、やっと出来あがった············
完成の心地よい余韻に浸りながら、なんとなく白筆の滑らかな柄を撫でていると、母屋のほうから姦しい声が響いた。
「母様〜っ! また桃霞姐さまが私の筆かじった〜〜〜っ!」
「······も〜っ、何やってるの〜」
琴箭は座をたつと、困ったように笑いながら、室を後にする。
ふわり、と書の完成を祝うように。
また一条、微風がそよいで、たてかけられた白筆をわずかにゆらした。
書の巻頭にはこうある。
変わることなき友誼と、在りし君と過ごせし若き日々を留めんがため、ここに記しおく。
著 蔡琴箭
月琴伝
完




