王夫人、逢蒙殺羿を紐解くこと②
まったく永い、なんと永い一瞬であったのか。
こんな体験、後にも先にももうないだろう。そしてもう二度と御免だ。
おもわず瞑ってしまった瞼をゆるゆると開いた時、馬弦は心底そう思った。ひたすら呼気を許される時を待つよりほかなかった。
······だが。
この緊縛から、悪い意味で解き放ってくれるであろう衝撃音や振動は、いつまでたっても聞こえてくることはなかった。
誰一人として動いていない。天仙も、母も、嫦娥でさえも。本当に時が止まってしまったみたいだ。
──スウゥゥゥゥゥゥン────────
まるで風穴に風が吸い込まれていくような音だけがした。
いちどは臨界にまで達した天主の九矢墜陽箭の輝きがゆっくりとしぼんでいき、ヴンッ、と虫の羽音みたいな不快な音をたてて四散した。
ホッ、と腕をつかみあうくらい寄り添っていた桃霞が、息を継いだのがわかる。赤松子たちもやっと硬直から解き放たれる。
ただひとり、嫦娥だけが先程とおなじ体勢のまま、天へと弓を向けていた。その口許はひきしまっていたが、悔しんでいるのか、自嘲に笑んでいるのかは判然としない。
ただそれも長いことではなく、フッと儚げにふくと、ただ一度、ピィンとちいさく弦を弾き鳴らした。
「やはり月円塊は彤弓、天主には素會が原型として組まれていたようだ。だが嫦娥は、それをしたのは自分でないと断言していた············」
太玄女がとり寄せた檻つきの馬車へと嫦娥を拘束した後、さすがに気が抜けたのか、赤松子がはるか東海へとつづく地平を眺めながら呟いた。
「私は真実だとおもった。ならそれをしたのは誰か············」
「······特務のための天仙大宝製造は、たとえ役持ちの天仙といえどおいそれと関われぬ。よほどの意でもない限りな」
太玄女がうけて返す。
「だとすると、直に指示を下せる者······ということになる」
麻姑の呟きと、三者の脳裏にひとつの解が閃いたのはほぼ同時であった。
······まさか──天帝自身が?
しかし赤松子は、あまりの飛躍に自嘲の笑みをふくみ首をふる。
「あり得ぬ、か」
なんの話か解らず、顔を見合わせる馬弦と桃霞。ぽつりと琴箭がこぼした。
「······あの方が何故こんな事を目論んだのか。その深意はわかりません。
ただ······私には、かつて天が自分たちに為した罪を、その歴史を、うやむやにさせまいとしたのでは、と感じられました。
たとえ人の世がどう移ろおうとも、天は確かに罪を犯したのだという歴史を。その証を··················」
「··················」
かつて天帝がなした不行状。
あれを討てと放っておきながら、命によって手を汚した夫婦に行われた神籍の剥奪。後に待っていたのは只人としての死と、永劫の烙印······か。
赤松子はふっと息をつく。
「まさに······子らに教えられるとは、こういうことなのだろうな············」
「祝夫人······」
天馬が繋がれた馬車の檻へ座していた嫦娥は、いいかげん馴染んできていたその響きに顔をあげた。
そこに立っていたのは蔡琴箭。
天仙らの立ち会いのもと、最後に言葉を交わすことを許されて、こうして話している。
「······何かしら。恨み節?」
「······いいえ。それについては、私も言えることではないので。
私も······子らに酷いことを強いたし······それに弦は。もしも天主という存在と一体にならなければあのまま消え去っていた。
それでも貴女は、知っていながら彼を自由にさせてくれていた······」
嫦娥は鼻先で嗤う。
「······可笑しなものだ。仮初めとはいえ、去卑の後宮では張り合う立場だったお主と、こんな話をしているとはな」
琴箭も、同様だ、と言いたげな笑みを返す。
「そう、ですね。私もすこし妙です。けれど············」
なにを思ったか、突如琴箭は膝を折り、地にひざまずいた。
「······礼をくれるというのか? お主が、私に? 増々もって可笑しい」
「いえ」琴箭はそっと立ちあがる。
「もしも貴女が、本気で事にあたっていたなら、私共の漢は無くなっていたことでしょう。ですから······
たとえ、それが貴女ご自身の目的のためであったとしても構いはしませぬ」
「······」
「それに──こうも思ってしまったのです。
もし······もし、かの英雄が、己のせいで巻き添えにしてしまった妻だけでも救いたいと、そう思ったのなら。
もし、得られた不死の霊薬が、一人分しかなかったのだとしたら······その英雄はどうするか。
そして、彼の真心が痛いほどわかった、その賢明な妻ならどうしたであろうか、と············」
嫦娥はまじまじと、不思議な微笑みをみせる琴箭を、彼女にしては長いこと見つめている。
「私には、羨ましいです」
「······ふ。これだからお前は好かなかったのだ」
口ではそう言いながらも、嫦娥の表情は、いまでで最も柔らかい。
「······手を。出すがよい」
いって嫦娥は袖を探った。
琴箭が素直に両手を差しだすと、檻の隙間からなにかをそっと掌へのせる。
これは······筆? まるで白玉のような······。
その柄はやわらかく虹の光沢を宿しており、先にはひとつ、鮮やかな紅い宝玉がはまっている。毛先は新雪もかくや、とばかりに純白で、そよ風のように掌をくすぐった。
これを見咎めた赤松子が一歩踏みだすが、麻姑と太玄女がおし留める。
「これは······?」
「······子らに強いたのは、妾とて同じゆえ。せめて、あ奴が最期に望んだ終着に······とな」
はっ、として見開かれた琴箭の瞳が潤み、また大粒の涙が零れ落ちて、白筆の純白の毛先へ吸いこまれた。
筆を愛おしく、腕で抱きつつむ。
馬弦が涙をこらえて乞うた。
「······共に帰りましょう、母上。清栄も、みなも待っておりますよ」
お読みくださり、まことにありがとうございました。
今週金曜日、21日正午の更新をもって、「月琴伝」完結となります。
台詞の一部を修正しました。




