屠蘇哀歌⑤
「蘇娟······蘇娟······」
痛む腕を抑え、片足を引きずりながら、譫言のようにその名をよび、屠晨はすすんだ。
いまさらどうすることもできない。すでに事は起きてしまった。それでも、少なくとも自分がともにあれば、あの娘を郷里へ導けるかもしれない。
「おい」
ちかくで唐突に聞こえた声に、ギョッとしてふり向くと、漢人のひとりが意外なものを見たと言わんばかりに、まじまじとこちらを凝視している。
「コイツ──烏桓の奴だぞ!」
「「なに?!!」」
たちまち周りを囲まれてしまった。
「この野郎······まだ逃げていない奴もいたのか······」
「······こいつ、蘇娟にまとわりついていた奴じゃないか」
「俺たちを騙しやがって! ······許せねぇ」
怒気をみなぎらせる男たちに、屠晨はなすすべもなく立ちつくすしかなかった。と、「まて」と皆を分けはいってきた男がある。
「コイツ、怪我をしている。それで仲間に置いていかれたのかもしれん」
「やっちまおう!」
「阿呆、落ちついて考えろ。これこそ天の助けだぞ。こいつを道案内に使えばいい!」
「──なるほど······そうか、そうだ! コイツなら水のありそうな場所がわかるわけか!」
一縷の望みをえた漢奴たちは、立っているのもやっとな屠晨をわけなくひき立てていく。
いそいで小屋をでた娘たちは、どうしたわけか急に向きを変えた蘇娟に驚いて呼びかけた。
「蘇娟ねえさん?! どこ行くの?」
「······さきに行ってて! 私······」
「······すぐに来てね!」
蘇娟は負った荷の布袋をくくると、烏桓奴隷たちの小屋へと走る。
たんなる勘違いならその方がいい。でも······でも、もし動けないでいるとしたら······? そのせいで仲間に見捨てられていたとしたら?
虫が騒いだ、という奴だろうか。あるいは罪の意識がそうさせたか。危険であろうと確かめずにはおられなかった。
平素ならありえない選択。だが、この時ばかりは、それが彼女を窮地から救う選択となった。
見張りの一家への所業をきいた匈奴らは激怒した。ただちに勇士をつのると、得物を手に地を揺るがせて殺到する。
「奴隷ども! 脱走などと舐められたものだ! いいか! 構うことはない、殺せ! 代わりなんぞまた捕まえてくればいい! 娘は好きなのを持っていけ!」
「「ウォーッ!!」」
「お前たち、なぜ······」
いざ出ようとしていた時、準備万端でおいついてきた娘らをみて、男たちは言葉に困った。
「小父さん、私たちも行きますっ」
「置いていかないでっ」
むむぅ······と皆うなったが、そもそもが大博打だ。足手まといだ、などと酷な物言いのできる人間はここにはいない。
「わかった。ここまで来たんだ、もちろん連れてゆくさ。で、来るのはふたりだけか?」
「いいえ、まだ蘇娟ねえさんが······」
いいかけて、娘はちらと横を見て絶句した。男たちにとり囲まれてうなだれているのは、まごうことなき屠晨ではないか。
「あんた······! 蘇娟ねえさんはあんたを捜しにもどったの! なんであんたがここにいるの!」
大人たちに押さえられた娘がなにか必死に怒鳴ってくる。言葉はわからなかったが、合間合間に聞こえる「蘇娟」という名で、屠晨にもだんだん状況が読めてきた。
そう。あんなに帰りたがっていた蘇娟が来ないはずがないではないか! ということは、まさか──
慌てて暴れだすが、唯一の伝手を逃がしてたまるかと数人がかりで抑え込まれ、どうすることもできない。
「······待ってはやれんな。早ければ早いほどいいんだ。行くぞ、郷里へ帰るんだ」
人気のない小屋のなかへ、蘇娟は息せき切って飛びこんだ。
「屠晨?!」
すでに小屋の中は暗く、奥までは見通せない。彼女は注意深く腰をかがめて、隅から隅まで捜した。だが、足先に重いものが当たることはなかった。
「逃げた······逃げんだ············」
ほっとしたの半分、どこか複雑な想い半分で、蘇娟は息をつく。
いいんだ、これで。屠晨は無事逃げた。私も······
小屋をでようとして、蘇娟は不吉な物音に血の気が引いていくのを感じた。
足元から伝わる振動、ひびくこもったように重なる低音──間違いなく馬群の脚音だ!
判断する間もなく猛烈な気配は小屋へ近づいて止まった。
それよりも早く小屋のなかに飛びこんだ蘇娟は、かろうじて奥の方で腹這いになり暗がりに身を潜める。
戸口に男の影がひょいとのぞき、中にいるかもしれない者のたてる音に耳を澄ます気配がつたわってくる。幸いにも不精をして中までは入ってこぬようだ。蘇娟は口に手を当てて、息の音さえもらすまいと必死に我慢する。
「駄目だ、やはり逃げてもういない!」
男はひっこんで怒鳴った。
「当たり前だ! 烏桓なんぞどうでもいい! それより漢人だ、いそげ!」
仲間から怒鳴り返され、男はまた戸口から顔を出して中をうかがったが、舌打ちすると馬にとびのり、駆け去った。
体の震えが止まらない。プハッ、と蘇娟はぎりぎりだった息を吐きだす。
「······みんな······みんなが!」
悲劇だった。
いましも出立した漢の奴隷たちは、想定外にはやく押しよせた匈奴騎馬にたちまち追いつかれた。やっと得た自由は瞬く間についえ、あとはもう、死が待っていた。
そこにいるのは男らばかりと知った匈奴兵は、激情そのままに散り散りになった彼らを追いまわし、仕留めてゆく。娘ふたりはあっという間に鞍のうえへ引きずり上げられ、連れ去られた。
悲鳴のなか、屠晨は草地に這いずりながら、ふたたび集落を目指した。頭の中にあるのは、もはや己の死ですらない。ただひたすらに、蘇娟のことを想った。
ぼちぼち更新を定期へもどしたいと企んでおります。
とりあえず、次回更新は明後日、火曜日となります。




