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【完結】月琴伝  作者: 雲野 蜻蛉
哀別双詩
362/403

屠蘇哀歌⑥


 死に物狂いで集落へもどった屠晨(としん)は、自分たちの小屋へ向かった。

 まさか俺を心配して戻るなんて······

 だがそれが幸いしたともいえるのだ。もしあの場にいたら、本当に何もかもが潰えていただろう。


 小屋の周りには誰もいない。念のために中も探してみたが、やはりもぬけの殻だった。


 どこへ行ったか。まさか行き違った? それとも漢人の集落へもどったか。


 夕闇がいよいよ濃くなる中、屠晨は必死に地面へ目を凝らす。家畜を追うための術、草や土のうえになにか痕跡はないかと血走った目を見開いて捜した。


 あった。足跡······それも新しい。歩幅からみても女のものだ!

 足跡はすぐに草にのってわからなくなったが、それで充分だった。そのつま先は集落とも、惨劇の場とも違う方角を示している。


「あそこだ······あそこに行ったんだ」



 ひと口に草原といっても、けして平坦のっべらという訳ではない。とみにこの周囲は山脈の近いこともあって起伏は多い。もし予測どおりにあの場所へ向かったのなら、ひよっとしてひょっとする。

 屠晨のなかで、僅かに、たが、希望の灯がひとつ点った。



 ──その進路に、馬の蹄跡が混じりこむまでは。


 屠晨は蒼白になって地面に倒れこむ。

 もはや草の上にのこる痕跡を見出すには光が足りない。最悪なことに、周囲を散々荒らしている蹄の跡はとって返したりはしていない。左右によれながらも、そのまま丘の向こうへと伸びている。

 屠晨は立ちあがると、自分の体のことなど忘れて駆けだした。





 夕闇が濃い。

 大山の向こうへと沈んだ太陽がのこした橙色の温かみが、ぐんぐんと迫る濃紺に浸されてゆく。


 丘を登りきった屠晨は、愕然とした。

 窪地にたつ馬の影。その陰になって、なにか白くぼやっとしたものが転がっていた。

 とっさに出ようとして転げ落ちる。麓まで一気に落ちた屠晨は、歯を食いしばって立ちあがり、その下へと駆けていった。


「────」


 そこに蘇娟はいた。

 衣をわずか乱し、目と口を開いて大の字になって。


「蘇娟? 蘇娟っ。蘇······」


 頬を撫で、揺さぶってもみる。だが、もう彼女が息を吹くことはなかった。あれだけ強い印象を与えた瞳はただ、瞬きはじめた星を映すだけだ。


「なんだお前は」


 突然の乱入に驚いた馬を落ち着かせ、男は娘にとりすがる屠晨を睨みつける。


「······お前······お前が······蘇娟を············」

「烏桓か。まだ逃げていない奴もいたのか。

 その娘のことを言っているなら知らんぞ。追いかけはしたが、俺はやっていない。勝手にくたばったのさ」



 だがそんな言葉はもう、屠晨の耳には届いていなかった。蘇娟の瞼を閉じてやると、抱きよせる。まだ残る温もりが、このうえなく哀しかった。


 なぜだ。蘇娟はこんなに頑張った。なのになぜ、アンタは助けてやらなかった──


 顔をあげ、蘇娟が毎日祈りにきていた「その大岩」を仰いだ。



 瞬間、心の臓が爆裂したのかと思った。

 とるに足りない我が身でも、そこから立ち昇る、目に映らない光が何であり、何のものであるのか判る。

 今はっきりと、すべてがひとつに繋がったのだ。



 蘇娟が天からの遣いと信じ、毎朝祈りをあげに来ていたそのものとは──




「天仙······大宝······」




 まるで大地に打ち込まれた杭のように、まっすぐな白い巨石。

 明らかな天然の産物とは違う、磨き抜かれた滑らかな曲面のそれは、長年の風雨にさらされ、汚れてもなお、たしかな光輝をはなっている。


「ふ、ふへへ······」


 涙がつたう。

 これはいったいなんの涙なのだ。

 なんのためにお前はそこに立っていたんだ、なぁ······



 膝に力をいれ、歩む。

 その根が刺さった際のところでとうとう彼は力尽き、どうと倒れ込んだ。血に染まった右手が巨石の面を撫で、爪痕のように赤い筋をのこした。


 ほら······蘇娟。君はたどり着いたんだぞ。頑張ったな


 背後で足音が地を踏みしめた。

「気は済んだろう。逃げた仲間のぶん、お前に(あがな)ってもらう」


 剣を抜く音がして、風がビョウと鳴った。





 夜がすべてを包みこむ。

 草原に遺されたのは、白い巨石。そして、そのそばに横たわる男女の亡骸だけだ。

 まだ娘の頃を抜けていないようなその女は、まるで眠っているよう。わずかに口元が笑んで見えるのは、みる者のせめてもの願いだろうか。

 うつ伏せになった男の方も同じ年頃なのだろう。だが、男がどんな顔をして眠りについたか······持ち去られてしまったものを知ることはできない。



 ざわりとして、わずかに大気が鳴動した。

 巨石が震えている? 大声で泣き喚いているとでもいうのか? だが、どくん、とそれは確かに脈をうった。

 わずかにかかった右手の指先から、ずずっ、と、男の亡骸は巨石に呑まれ、そして完全に失われた。


 轟音がして、巨石が砕け散った。

 ドスドスと岩塊になったそれらは、むずがるように身動ぎし、やがてゴトゴトとひとりでにより集まってゆく。そしていつしか人の形をとった。

 ほのかな光をまとったその影は、苦悶し、夜空へむけて、いつまでも咆哮を放ちつづけた。



誤字、一部矛盾点を修正いたしました。


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