屠蘇哀歌④
「なんだい、蘇娟。今朝はお祈りに出ないのかい?」
いつもならとっくにでている刻だから、小母さんがそう聞いてくる。
昨日のことは誰にも話してはいなかった。もちろん、ちかい娘たちは私の様子が変だったことで、何かあったのかもとは気づいたかもしれないけれど、それでも大人たちには知られたくなかった。
知ったところでどうにもならないし、小言を言われるだけだから······
「はい、今日は······」
なにか察した訳ではないだろう。ても小母さんは神妙にうなずいた。
「ああ、そうしな。······『あの話』がもうすぐそこなんだからからね」
自重おし。それだけ言って朝の支度をはじめた。
いわれなくてもあんな目に遭ったのだ、とても独りで外にでる気がしない。もし、屠晨が来てくれなければ、私は今頃······
寒気がきて、衣の裾をかたく握りしめた。
屠晨······そうだ、屠晨はどうしたろう? 無我夢中で独り逃げてきてしまったけれど、彼はあれから。
「まさか······」
怖ろしい想像をあわてて否定する。そんなことはない、そんなこと······。私を助けたせいで人が──そんなこと!
確かめたい。でも、それもままならない。
「······屠晨」
脱走のときに会えると、そう信じるしか、ない、のかな。
そして、その日はやってきた。
これをしくじれば生きてはいられない。
よしんば成功したとしても、故郷まで帰りつける保証はない。
分の悪い賭けだ。それでもやらなければ、ここで朽ちるのを待つよりほかない。さきに見送った同胞のように、冷たい異境の土に眠ることだけは願い下げだ。
まず男たちが、密かに準備した心許ない刃物をもって匈奴の穹盧を襲撃する。留守居をする匈奴兵の家族を質にとって待ち、帰ってきた男どもを拘束するのだ。
漢人集落の男たちは、ほとんどが壮年以上の者らばかり。
そもそもが、農夫や、銅器など職人の里から家族ともども連れてこられた者らで、荒事に慣れているとはいい難い。くわえて、この地での厳しい生活に体を痛めきっていて、真っ向屈強な匈奴の戦人とやり合うことは適うまい。
だからどんな手段でもとるつもりだし、匈奴に自分たちの味わった苦しみを返す機会だ。
男たちの眼は、ギラギラと復讐に燃えていた。
「いいか、ひとりとて見逃すのじゃないぞ。逃がせばお終いだと思うんだ。
よし──では行くぞ······!!」
整然と見張りの穹盧に押しよせた一党は、怯えるその家族を有無をいわさず押しこめると、息をひそめて働き手が帰るのを待ちかまえた。
だが、慎重をきしたつもりになっている時ほど、こぼれや抜けといったものがでるのが常だ。彼らの場合は、それが致命的ともいえるものになった。
たまたま帰りが遅れた匈奴児がひとり、めざとく網をかいくぐり、馬で逃げたことに気づくものはいなかった。
夕闇がせまる頃、ついに吉報が烏桓人らのもとに届けられた。
「ふ、やったぞ。奴らまんまとやり遂げた。逃げるなら今だ!」
いろめきたって仲間が出ていくなか、兄役の男は、小屋の隅で転がっている屠晨に歩みよった。
「······縄だけは解いておいてやる。それとも付いてくるか」
だが屠晨は虚ろな目で見返してくるだけだった。
「······いいだろう。馬は残っていないと思えよ」
そうして、見咎められることなく小屋をでた兄役ほか数人は、とりきめにあった丘の裏へ滑り降りる。
指笛で鳥の鳴き真似を三度、ただちに仲間が数頭の馬をひきいて現れた。
めいめいそれにまたがると、無情にも東へと駆け去ってしまった。
烏桓にはりついた者の報せによって、一同は出し抜かれたことを知った。
愕然となった。誰もが蒼白となり、口を利くことすら出来ない。
そもそも、この案は漢人から持ちかけたもので、まんまと烏桓を抱え込んだ気になっていた。それを利用されるとは考えにすら至らなかったのだ。
「······と、とにかく。決めるしかない。それでも出るか、やはり残るか」
「残るったって······ここまでやっておいて」
ひとりが暗い声音でボソリとささやく。
「······方法ならあるじゃないか。
コイツら全員始末するんだ。そうすればみんな、逃げた烏桓どものせいにできる」
そのおぞましい提案に、すぐに反対の声が上がることはなかった。
不気味な沈黙。
誰もが憑かれたような視線で覗いあう。
「いや、駄目だ、駄目だ」
ずっと音頭をとっていた男が慌てて首をふる。
「それで助かるとも限らないんだぞ。やってしまった以上、もう行くしかないのだ」
「どうやって! 馬も道もないのにか!」
「ここにいても殺される! どうせ死ぬ! なら少しでも望みをもってゆくんだ!」
みなは悄然としながらも、ぽつりぽつりとうなずいた。
「しかし、年寄りや童はどうする。歩くとなれば尚更だぞ」
「······置いてゆこう。それしかない。
もとより耐えられない者は残るとり決めだ。娘たちも。まだ幼い、とても耐えられない」
そう、無謀な賭けに連れ出すことはない。たとえ、そのせいで匈奴のものになったとしても······生きてはいける。
「大変だ、小母さん。小父さんたちが怒鳴りあってるっ」
様子を見にいった娘が小屋に駆け込みざま叫んだ言葉に、小母さんたちははーっとため息をつく。
「やっぱりかい。これだから男どものやることはね······」
彼女は不安そうにする童らをじっと見つめて諭す。
「いいかい。これからたとえ何が起ころうと、堪えるんだよ。そうすれぱアンタたちだけは助かるからね」
つぎに小母さんは、蘇娟らとりわけ年長の三人を隅によんだ。
「アンタたちは、いますぐこれをもって男たちの後をおうんだ。けしてはぐれるんじゃないよ。そうすりゃ無下にはされないから」
蘇娟はギョッとして顔をあげる。
「小母さん······けど、」
「アタシらは······もう歳だ、とてもついてはいけない。可愛そうだが、あの子らにも無理だからね······
······いいかい、蘇娟。ふたりもお聞き。
万が一。万が一、思うようにならなくてもだ。生きてこそだよ? 死ぬくらいならどんなに嫌でも、苦しくても、耐えるんだ。······いいね?
さ、ぐずぐずしていては駄目だね、行きなさい!」
三人は青白い顔を見合わせ、しかとうなずきあった。




