屠蘇哀歌③
「きけ。いよいよだ。漢人たちとの協力をとりつけた。奴らは人手と食糧、こっちが馬をだすことで話がついた」
数日の後。
烏桓の衆の小屋で、兄役の男が声をひそめていった。この朗報に、ほかの者も高揚する。
「おお、まとまったのか。外の連中とは? 連中とも話がついたのか」
兄役の男は黙ってうなずく。おおっ、と抑えきれぬ声が仲間内からあがった。
外の連中──とは、勢いに圧されてやむなく匈奴に下った烏桓たちである。彼らは表向きは従っているが、そこは自由でしたたかな遊牧の民。心服なぞそうするものではない。いまはただ、強い草原の風を避けているに過ぎず、待っていればかならず風は凪ぐことを彼らは知っている。
兄役はつづける。
「漢人が俺達についた見張りを数で抑えこむ間に、外の連中が馬を寄せてくれる。それでこの墓場とはオサラバだ」
もちろんのこと、この報せに屠晨も発奮した。
いよいよ此処を抜けだす時がきた。それも、漢人たちも一緒に。
それはつまり、蘇娟とも一緒にってことじゃないか。······もしかすると、ずっと······
慌てて頭をふり、この恥ずべき考えを打ち消した。
なにを言ってるんだ、俺は。あいつは帰りたがってるんじゃないか。だから······故郷にかえしてやることが第一なんだろ。
「シン······おい屠晨、聞いているのか?」
自分の考えに囚われすぎた。兄役のすこし不機嫌な声にはっと我に返る。
「はい」
「······屠晨。いいか、お前には外の連中との繋ぎを任せる。俺達じゃ目立ちすぎるからな。大事な役目だぞ、いいな?」
「わかりました」
屠晨は力強くうなずきを返した。
翌朝。
屠晨は小屋をでると、よくよく気をつけて普段どおりを装い、ブラブラと歩いた。
草原の民の朝ははやい。今日も匈奴人が数人、家畜の世話をしながら、こちらに視線をよこしてくる。
脱走しても目鼻のきかぬ漢人とちがい、彼ら烏桓人はおなじく草原の民である。馬がなければ余程の無茶もしない代わりに、いちど草原に出てしまえばどうとでもしてしまう。
そのため匈奴もそれなりに警戒をして、入れ替わり立ち替わりに見張りに来ているのだった。
しかし出てきたのが屠晨であったので、なんだアイツか、というように首をふり、馬の方へと向きなおる。
兄役の狙いどおり、「いつもの所」へいくのだと思われたらしい。そのかいあって、彼は難なく手助けしてくれる仲間の繋ぎと落ち合うことができたのだった。
「······いいな? 『鳥、三度』だぞ。こっちも命懸けなんだ、けして過つなよ? いいな?」
「ああ、間違えず伝える」
たくみに匈奴の目を逃れて接触してきた同胞は、屠晨にあつく念を押すと、足早に去っていく。
その背を見送り、無事に務めを果たしたことで屠晨の心はいよいよ軽くなった。
きっとうまく行く。馬さえあればこっちのもんだ。草原に出さえすれば、俺たちが匈奴人に劣るものか。希望がでてきたぞ······!
叶うならこの報せを蘇娟にも聞かせてやりたい。
そんな事を考えていたからだろうか。丘を越えると、風にのって何やら聞こえてきた。
これは······なんだ、家畜を追う声か。いや、違う? 誰かが声を張っているのは間違いないが······これは······女······の声?
「! ──嘘だ!」
背筋が一気に凍った気さえした。脳裏に稲妻のように走った怖れに、屠晨は走り出していた。
「やめて······ッ! こないでぇっ!」
息を切らし、馬の間を駆けながら蘇娟は必死に懇願する。だが馬上のふたりには届くはずもなく、よしんば届いたとしても、けして容赦などしなかっただろう。
「暴れろ暴れろ、好きなだけ暴れろ! 活きの良い女はますますいい!」
「気に入った! こいつは俺がつれて帰る!」
匈奴の若者ふたりはまるで狩りを愉しむように蘇娟を追い回す。
焦りはしない。もとより体力に乏しい漢奴たちがそう長く抵抗できないことを彼らは知っている。動けなくなったところを攫えば、この後も逃げ出そうという気を挫けるだろう。
「やめて! 嫌だ! 私はっ、私は──帰るんだぁ······ッ!」
蘇娟は涙ながらに最後の叫びを吐きつくす。
無情にも、その襟元に蛮人の手がかかる! と思われたとき、丘を誰かが雄叫びをあげながら下ってくるのに気づいて、若者は手をひっ込めた。
「お前らァ────ッッッ!!」
聞き馴染みのある声に、蘇娟も顔を上げる。
「屠晨······っ?」
「蘇娟っ! 蘇娟っ!」
屠晨は止まることなく駆け寄ると、何者か見定めようとした匈奴人の隙をついてパッ、と馬上に跳び上がる。
「な! お前!」
「こいつ······烏桓の!」
剥がそうとするところを必死に食いつきなから、屠晨は叫ぶ。
「逃げろ! せめて集落まで! どうにかッ!」
蘇娟はその声に勇気をえて、力をふり絞って駆けだした。
「こいつ! どけッ!」
集落まで逃げ込まれれば騒ぎになるかもしれない。そうなれぱ年長の者らの耳に入るかもしれず、罰をくらうかもしれない。
慌てたもうひとりが馬首をめぐらせるが、屠晨は食いついていた相手を自分もろともひき倒すと、踏みつけ、体を起こした馬にまたがっていっさんに後を追う。
たちまち追いついてまた馬上の格闘がはじまった。二頭の馬が身体をぶつけ激しく嘶き、蹄を鳴らして回転する。
そのうちに蘇娟はなんとか丘を登りきり、集落のほうへ降っていく。
「こいつ!!」
若者のひとりは力づくで屠晨を地面に叩き落とす。
息を荒げて顔を上げるが、目的の女はとっくに見えなくなっていた。これ以上無理に追っては、見張りをしているものに気づかれるだろう。
「野郎······邪魔してくれたな······」
はじめに馬を奪われた者も、怒りの形相で彼を見下ろした。
「奴隷の分際でよくも······死んでも後悔するなよ!!」
どれくらい経ったか。いい加減いたぶり飽きた。匈奴人はながくのびたものを蹴りとばす。
「くたばったか」
もはや血反吐もでなくなって草の上に転がる屠晨に、若者はペッ、と口の中の血を吐きかけた。
「しるか、ほっとけ。······チ、馬から落ちるは女には逃げられるはで散々だぜ。······上の連中に目をつけられる前にモノにしたかったんだがな」
「諦めろ。集落に逃げ込んだんだ、しばらくは出てこない」
「······あすこをつつくと氏族長にどやされるものな············クソっ」
ふたりは騎乗すると、家畜に追いつくべく、いずこへか消えた。
ほぼ半日はああして転がっていただろうか。凍える夜がくる前に意識が戻ったことはせめてもの救いだっただろう。
だが、痛めた身体で這うようにしてもどった屠晨を待っていたのは、
「屠晨! お前······匈奴と小競り合いしただとッ!?」
仲間からの叱責の言葉だった。
「なにを考えているんだお前! 俺達を一生ここに閉じ込める気か!」
「······漢族の、女が。攫われるとこ、だった。アイツらの······助けを借りるなら············ほっとく訳には」
「──······お前馬鹿か?
いいんだよ、奴らがどうなろうが! それよりも今匈奴に目をつけられる方がよほどまずいたろうが!」
「何、で? ──だって漢人と······協力するんだ、ろ? ······アイツらも、助けるんだ、ろ?」
この言葉には、兄役だけではなく、まわりの者らも、呆れたといったように長い息をついた。
「お前──いいか? 連中を助けるなんて口だけに決まってるだろ! べつに天地の神に誓ったわけじゃないんだぜ?!
漢人たちに食糧をださせ、見張りを抑え込ませ、その隙に俺たちだけ脱出! 奴らが匈奴に追われている間に東へ帰る! それだけだ!」
屠晨は腫れ上がった顔をあげて、もうよく見えない兄役の顔を凝視する。
「だってそれじゃ──みんな······殺されちまうっ」
「知るか! だいたい連中分の馬をどうやって調達するってんだ。俺達の分だっておぼつかないんだぞ!? 草原に出たあとは? その後も俺達に面倒みろっていうのか?!」
「そんな······そんなの······汚ねぇ······っ!」
痛みで上がらない腕を伸ばすが、目の前の兄役に届くことはなかった。
怒った烏桓の者たちはろくに動けない屠晨を縛りあげると、無情にも床に転がした。
「いいか! この役立たずはこのまま縛っとけ! しばらく飯も食わさなくていいッ!」
脱字を修正しました。




