馬弦、月塊と袂をわかち、匈奴陣へ参じること
すっかり蒼空がひろがってしまった山域の白く光る頂を、馬弦は目をほそめてみつめた。うらめしいほどに、濃く青い空が哀しい。
「······じゃあ」
なんとか笑みをつくって、彼はいまだ肩をおとす弟子豹のしろい頬を撫でる。
弟子豹はなにか言いたそうにしていたが、ふたりが去る際ぎりぎりのところになって、ようやく口を開いた。
「あの······っ」
小走りにかけ、真っすぐな瞳で哀願するように馬弦をみあげた。
「······その、鎖飾り······」
声がしぼんでゆく。それは、お師匠の最期のいいつけに逆らう行いかもしれないという思いからだろう。
馬弦は、首からさげた大切な託され物の納まった革袋をしっかりと握りしめる。
「届けにくるよ」
力をこめていった。
「全部終わったら、かならず返しにくる。僕がかならず、この足で······!」
弟子豹はすこしだけ哀しそうにわらうと、雪を蹴って谷間へと去っていった。
きっとあの子も、これから独りきりの修行のなかで疲れたとき、ふと振り返ることになるのだろう。大切な師匠との日々を······。
あの子のためにも。
そして、せめてこの秘宝を遺してくれた雪華仙のためにも、かならずやり遂げねばならない。いまや蔡琴箭をとりもどすという、きわめて個人的な願いは、よりおおきく、広いものへと変わったのだから。
もちろん、現実はけして思わしくないことはわかっている。
地の力においても、天主は月塊のそれを上回った。
『大いなる力』の実態はいまだみえてこないが、それにしても六つの鍵のうち、天主が四つをしめ、たいする月塊は二つきり。
自分とて、べつに劉豹に対抗できるだけの兵なり権限なりをもつ訳ではない。くわえて、あちらには天のお墨つきまでもが揃っている。
「············」
じっと掌の鎖飾りをみつめている月塊に、馬弦はしずかに歩みよった。
「······雪華仙様の最後の言葉······『どうか弟子をよろしく頼みます』って。そうしたら、弟子はそれを僕たちに渡すように言いつけられてた。············憶えていて、ほしかったのかな?」
ややあって、月塊は口をひらいた。ぎゅっと、金属飾りを握る手にも力がこもる。
「いや······そんな感傷めいたもんじゃねェ。
雪華ははじめ、俺に言いやがった。 『なぜそのままで来たのか』と。
そしてコイツを遺した」
「その秘宝は、持つものの昔をみせてくれるって、あの方はいってた」
「······なら、奴の言いたかったことはひとつだ」
──なぜ、過去と向きあってこなかったのか──
(意気地をだして向きあってくるべきだったんだ。俺がそうしてりゃ、もしや何とかなったかも知れねぇのに············)
「探らなきゃ、ならねェ······!」
「······その前に、さ」
馬弦がやや逡巡しながらいった。
「僕を、送ってほしいんだ」
「? どこへだ」
馬弦は、今度はしっかりと芯のすわった目を月塊にあわせる。
「······おい、まさか。正気か?」
「このまま一緒にいたって、僕が役にたてることはもうないと思う。だったらさ」
たしかに······。敵はこちらの一歩も二歩も先をいっている。これ以降は何倍も危険をおして進む覚悟をしなければ、とうてい状況を覆すことは叶わないだろう。そして彼ならば、驚かれることはあっても怪しまれることはあるまい。
だが、そこへ行くということはすなわち、間違いなくあの天主と遭遇することを意味する。
「だからきちんと備えはしていくよ。僕はいまの僕にできるだけのことをする」
月塊はついに頷くと、馬弦を背負って山を降りていくのだった。
数日後。
劉豹ひきいる匈奴遠征軍、本営。
その日、陣はすこし騒ぎとなった。陣門をひとりの少年がくぐったためだ。それをたまたま、見知った若い兵がみとがめとり囲んでいるところを、上役の知るところとなった。
少年といっても、まだ童子といってよい年齢である。それが馬もつれずに来たというのだから、屈強な兵士たちの誰もがおどろいた。
そう、この童子こそ馬弦であった。
経験豊富な上役も、驚き半分、訝しみ半分といった感であったが、とにかくも劉豹に報告しなければなるまい。
これには劉豹も一瞬耳を疑い、問いなおす。
「なんだと?」
「ハ······。ただいま陣内へ匈奴の装束をつけた童が現れまして、問いただしたところ、自らを攣鞮氏の馬弦である、と。
馬弦殿といえば、左賢王陛下の······ですので、ご報告に。どういたしましょう?」
「······ふん。よい、ここへ通せ。俺が直々に確かめてやる」
はたして、天幕の内に通されたのは紛うことなき馬弦であったので、劉豹は心中、ほぅ、とうなった。
たいして馬弦も、初めてみるその男をまじまじと見つめた。
毛氈帽からのぞく髪は黒々と、身体もほそくひきしまっており、まったく淀みなく動くその様には溌剌とした若さがあった。知っている姿とは似ても似つかない。その若返った身ににあう厚手の毛衣に具足をまとって立つこの男こそが、月塊いわく摩訶不思議な力でえた去卑の異なる姿であるという。
「オイ、礼をせぬか」
いつまでも立ち尽くしたままの馬弦を、傍に控えていた者がたしなめた。
「いくら貴人の御子といえど、左賢王陛下に無礼だぞ」
「······それではお尋ねいたします」
馬弦はじっと劉豹から目を離さずにいった。
「この方はどなたですか。匈奴の左賢王といえぱ、わが父上、去卑様ただおひとり。なにゆえあってこの方は左賢王を名乗られているのですか」
「──此奴······!」
「よい、下がれ」
劉豹は配下を制すと、すこしの間にわずかに逞しくなった馬弦を、ためつすがめつみながら面白そうに嗤った。
「なるほどな。筋道もっともである。
だが案ずるな。まだお前には分からぬだろうが、こんな姿でも余はれっきとした左賢王・去卑である。その半身······といえばよいのかな」
その語り口をきいて、はじめて馬弦は地に膝をつき礼をとった。
「拝謁いたします、左賢王陛下」
「それにしても驚いたぞ。まさか末嫡のお前が独りでここへ現れようとは。馬はどうした」
「過酷な道中でうしないました」
馬弦は立ちあがって答える。
「──よかろう、余りのものをくれてやる。望みどおり、我が傍で世の革新をしかと見届けるがいい」
なにかを含んだまま天幕をでた馬弦は、張りつめていた呼気を、ふーっ、とおおきく吐きだした。
よし。とりあえずは、よし。
なんにせよ、これで堂々と陣中にいることができる。
「後は······かならず、きっと······」
と、ここでにわかに多勢の蹄と具足のなる音がして、陣内にとられた道の横合いから、一軍の人馬があらわれた。
即座にあの雪山での記憶がよみがえり、馬弦は反射的におよび腰になるところをなんとか踏み止まる。
「ホゥ。これはどういう心算だ?」
「──天主!!」
もはや必要すらあるまいに、体裁だけの鎧をまとった天主が、怜悧な目で馬上から見下ろしていた。これから出陣なのだろう。全員が得物を手に、ぎらぎらとした鋭気をほとばしらせている。
「······主がいるということは、あの邪魔者も紛れこんでいるということか」
「······僕ひとりの意思だ。月塊はそもそも関係ない」
天主はじっと馬弦をみつめ、また馬弦もけして目を逸らすまいと天主を見上げた。
「······っ」
月塊がいっていた。マヌラ仙様の気配も消えてしまったと。彼も、コイツにッ············!
「何か······いいたそうだな」
「······別に」
「フン。浅知恵を働かせているようだが、俺はすでにあり余る力をもって自らを補い、完成をみた。主らになにが出来ようものぞ」
天主はいって高笑いすると、ハッ! と馬に鞭をかけ、兵をつれて駆け去っていった。
············それでも僕は······僕たちは諦めない。かならずお前も左賢王も止めて、琴箭様をとり返してみせる······!
それよりさらにすこし後、蒙古高原よりもさらに北。
巨大な三日月をおもわせる湖の際に、ひとり月塊の姿があった。
一部、表現を修正。




