屠蘇哀歌①
周囲を幾多の山脈にかこまれ存在するこの湖の、北から南西へと湾曲し弧を描くさまは、まさに三日月のようである。
ただ、それとわかるのは、鳥か天仙しかおるまい。それほどにこの湖は巨大だ。
七つの河川、大小二十七の島々をゆうし、我々の時代をしても、湖として世界一の貯水量、最大水深を誇るとされている。湖の周囲をぐるりまわるだけでも、じつに二十四キロほどもあるという。
この周囲に、かつて、匈奴の奴隷となった漢人たちの集落跡が、ひっそりとのこっている。遊牧民の移動式穹廬とはちがい、農耕民の地に足のついたものゆえ、跡がのこっているのである。
匈奴がここへ漢人らを隔離したのは、おもに農作業や手工業に従事させるためといわれる。あえてここ、であった理由は管理が楽であったからに他ならない。
おそらく見張りすらそう多くはなかった。彼らからすれば、草原において水をえる術さえもたぬ漢人どもなど、「後はお前で何とかしろ」とここへ放りだしておけばよいのである。
かりに逃げだすとしても、食糧とぼしく、まわりを何千里という草の海にかこまれたこの地は、まさに天然の牢獄だ。それも、柵も檻も必要のない、ある意味もっとも残酷な。
馬さえとり上げておけば、南下は自殺行為。まっているのものは、狼の牙か、きわまる寒さに飢え渇き。このいずれかしかない。
それを思えば、とらわれ、連行されて、「移動できない住居」をみずからの手で建てさせられた者達の悲憤は、いかばかりのものであったろう。
月塊はそれらを両脇にみながら、ゆっくりと歩を進めた。
こうしてみると不思議だ。もちろん存在することは知っていた。だが記憶のなか······なにか一枚布がかかったような、一層ふかいところにそれはある。奇妙なことに、みずからの足でこの道を踏み、生きていたという実感とともに。
いまはその名残りといえば、建物のあった土台やら窪みやらがかろうじてあるだけだが、そこには確かに昔、漢人の生活が息づいていたのだ。
愛想なく集落をでた道はすぐに、誰を待つともしれぬ祠廟跡へとでた。ここもやはり幾星霜のあいだにすっかり風化し、いまや土台しか遺っていなかった。
月塊はちいさな四角の土の丘にすわると、じっと集落をみつめ続けた。
やがて薄闇がおとずれた。太陽が地平の彼方へと隠れ、橙色の帯にしかと紺色のにじむころとなり、上天にははやくもせっかちな星がひとつふたつと輝きはじめた。
──聴こえる。
闇が深くなるにつれ、月塊の耳に幽かなものが聞こえはじめた。
それは聲。そして音。
会話であったり、物音であったり、はじめこそそうとはわからなかったが、とにかくそういった、人の生の気配だった。それらはどんどん大きく確かになり、暗闇にたつ焚火の煙のように、おぼろな影が物音について動きはじめる。
左手首にまいた雪華の形見の黒い金属飾りが震えている。
導きの楔、といったか。コイツがみせているのか?
月塊は誘われるように腰をあげると、幻影をさけながら道をかえし、やがて集落のうちの一隅へたどり着いた。
ここだ······。ここが俺の? ······いや大切だった何かがある場所か······
だがンなはずはねェ。俺は妖だぜ? どこかに······それこそ人の里に住んだ憶えなんざねぇ。
「──なのに、しってやがる。俺はこの小屋を······知っている」
どうしようもなく記憶の隅に残っているんだ。はっきりと、往時の構えまでみえる。
「こいつは······誰だ??」
瞬間、左手首の飾りが激しく鳴動したかと思うと、はじけるように甲高い音が鳴り響いて、なにもわからなくなった。
気がつくと、集落の往路にたっていた。
「はっ!?」
慌てて見渡すと、まわりはすっかり夜が明けており、いまだ薄い青空が朝日に白んでいる頃合いだった。遠くから、湖の波が岸辺へとうちつける音がしている。
朝になった以外は、とりたてて奇異な変化はないようだった。
──いや、違う、ある。もっとも違和感をともなって視界にとびこんでくるものがあるではないか。
「家屋がたって······しかも、むこうから人が歩いてくるだと?」
朝一番、お決まりの作業か、水汲みをすませて帰りらしき男が、桶を両の手にあるいてくる。恰好は遊牧民風。その男は月塊のそばまでくると、烏桓の言葉ではなしかけてきた。
「なんだ、屠晨。お前もマメだな、またあの女のところへ行くのか?」
「あの女?」
問われてはじめて気づく。自身もいつの間にか遊牧民風の粗末な毛皮の衣服を着ている。そしてなにより、思わず握ってしまった手の感触が──
「柔ら······かい」
目を丸くして両手を握ったり開いたりしている月塊を、男は変な目でみると、鼻でひとつわらったきり行ってしまった。
即座に湖まで駆けて──これがまた、まだるっこしい程にながく感じた──湖面にみずからを映してみる。朝日の照り返しのせいで見辛かったが、そこに揺れている顔はあきらかに別人のものだ。外見上の歳や背丈はそう変わりないようだが、それでもやはり別人である。
「人間······だよな、どうみても」
やっとのこと落ち着いてきた月塊は、状況をふり返る。
どうやらここは、あの湖の岸辺らしい。自分の意識は、なぜか人間の身体にはいっており、行き違った男とは顔見知り。
ということは、烏桓の民、ということか。そして毎朝、女に会いにいくことをくり返している······。
ふと見てみると、左手首にあったはずの飾りがなくなっていた。ということは、「これ」は、秘宝がみせている単なる幻影ではないというのか?
「······あの女······そうだ、あの娘に会いにいかなきゃ············」
意識はいよいよ夢現と曖昧になってきたが、行くべき場所だけは、なぜかはっきりと知っていた。
なろうの先輩作家さんのエッセイで、「過去編はやらないほうがいい」みたいなのを読んではいたのですが······
やってみると確かにムズい!
なんかリスクしかない気がしてきた(汗)




