光輝まといて天仙降臨し、闇迷の夜、明けること①
どれほど行ったか。すくなくとも喧騒は遠のいた。
自分と時をおなじくして尻に矢を受けていたらしい馬は、とうとう歩くのをやめた。
琴箭はおのれと帝をつないでいた帯をといて下馬し、ついで帝をたすけ降ろす。馬にはなんとか歩いてほしかったが、これでは無理をさせるだけだ。
「ご無礼いたします、陛下」
琴箭は、地べたに座りこんだ帝の脇から頭をいれてたすけ起こす。
通常ならあり得ない行為だろう。神聖な皇帝陛下の御身は、選ばれた者にしか触れることなど許されぬ。
だがいまはもう、なり振りかまってはいられない。具足こそまとっていても、武人でもなんでもない怪我をおった琴箭に、帝をおぶりきる腕力なぞありはしない。
「さあ、陛下。段煨が華陰で支度をととのえてございますよ」
「う······む」
一歩、また一歩と、ふたりは東へむかって踏みだす。ときおり後ろを振り返ってみても、やはりはぐれたか、楊彪の姿も、梅春の姿もみえなかった。
ほどなく帝の足がとまる。
「琴箭······ゆるせ。朕は············もう··················」
最後にかすかな息でつぶやくと、ガックリと意識をうしなった。
琴箭はあわてて重みを増した彼女の身体をささえたが、自身も激痛に顔をゆがめた。万策つきて、御身体を、そっ、と大地に寝かせる。
ここはどこなのだ。まだ華陰へは入らないのか。いくら目を凝らしてみても、みえるのは濛々たる砂煙ばかり。道は遥かにそれ、もはや県城などみえるはずもない。
やはり、駄目なの? 私達がすがったのは、漢という過ぎ去っていた夢でしかなかったの?
もっとやれた筈だった。いま思うと、避けられたはずの過ちがいくつも浮かぶ。
どうしてあの時、私は間違ってしまったんだろう。どうして············
悔し涙が、土埃でよごれた頬をつたった。
「············」
琴箭は青白い顔で息も絶え絶えな帝をなんとか背負い、また歩みだす。
肩が痛む。足が重い。自分より軽いはずの陛下のお身体さえ岩のように感じる。
華陰はまだか? まだなのか? これほど多くの人が、命が、いまこの背にある御方を護るために燃え尽きてゆくのに、天はどこまで無慈悲なのだ······!?
不意に弓弦の音がして、足元に矢がめり込む。
「逃がすな! 放てッッ!」
「まて······っ、ここにおわすはっ」
振りかえってみた最期の光景は、自分にむかってふり来る大量の矢の雨だった。
ひとり、またひとりと、周囲をかこむ兵が倒れていく。
伏皇后と董貴人をそれぞれ前に乗せた楊彪、董承、そして梅春は、乱戦の土塵のなかに方角を見失ってしまっていた。追手はすぐそこまで迫っている。このままでは主従共々あえなく討ち死にだと、彼らは悲壮な覚悟を決めかけていた。
と、突然敵兵の動きが乱れた。あわてて方向をかえ、逃げだし始めたではないか。
「何だ?!」
ワァァァァッ、と前方から大歓声があがっている。アッ、と五人が息を呑むと、煙のうちより幾人もの兵が踊りでて楊彪らを囲んだ。
「······ひょっとして、朝廷の楊大尉ではござらぬか」
「なに? そういう貴殿は誰だ」
一軍をひきいていたその武辺者はホッとした顔をみせて辞儀をする。
「某は河東は白波谷から参りました、李楽と申します」
おお、と楊彪と董承は顔を見合わせる。
「では楊奉が頼んでいたという援軍か!」
「左様にござる。ご使者をうけ、白波谷の一党、韓暹の下知のもと、陛下をお助けせんと駆けて参りました」
「よくぞ来てくれた! ここにおわすは皇后様であるぞ」
李楽はハッ、と顔色をかえ、鞍から落ちるように下馬すると、頭をひくくした。子分どもも一斉にそれへ倣う。
「それで、舟は用意してこられたか?」
「は、お言い付けどおりに」李楽は立ちあがって答える。
「いま我らはこうして優勢ではありますが、それも奇襲が功を奏したまでのこと。李傕の軍は多勢にこざる。どうかお早く」
とたん、アッ、といって楊彪は天を仰いだ。
「何という······いま少し我らが貴君とはやく出会えていたならッッッ!
陛下がいま臣下ひとりとこの先におられるのだ! おそらく河岸にそって移動しているとは思うのだが······とにかく陛下なくして我らは動けぬ!」
「オイ」
李楽は手下をひとり呼びつけると、「徐晃に河岸ぞいを捜索しろと伝えるのだ」と命じ、あらためて言った。
「ご使者であった徐晃が舟をひきいて河岸へと控えておりまする。陛下はかの者にお任せを。
さ、楊殿らもまずは舟のところまでお早く」
楊彪は前にいる伏皇后をチラとみ、唸った。
「······致し方ない、まずは舟へ。御二方を舟にのせたのち、陛下をお捜しする!」
時がゆっくりと感じれた。とうとう自分の番が来たのだ、と潔く感じられた。
突然、ウォンッッ! と風の猛る音がして、眼前に迫った矢が不自然に弾けとぶ。
「!!?」
『──大丈夫だよ、姉御』
傷が熱をもったか、朦朧としはじめた意識に、懐かしい声音が滑りこんできた。
······幻聴でもいい。貴女の声をまた聞けたのが、ただひたすらに嬉しい。
「撃つな! あれにおわすは皇帝陛下ぞッッ!!」
いまのは賈 詡の声か? まったくこんな所にまで先回りしてきたのか······にくらしいほどだ。
脚から最後の力がぬけていく。琴箭は皇帝を抱きかかえながら、大地に両膝をついた。
直後である。
空が音をたてて割れ、金色の光とともに、天女が舞い降りたのは。
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