桃霞、琴箭に天命のかげりをみること
まったく忌々しい。もう見えているのに! ホンのすこし足を延ばせばとどく距離であるというのに! かくも華陰までの道が遠いとは!
せっかく長安という檻を脱して、とびだした先は縛めの天井も壁もない原野。それでも変わらず檻でありつづける。いったいいかにすれば、この見えざる格子をつき破れるのか。
それでもあとすこし、もうちょっとだということは確かなのだ。琴箭の胸中は燃えんがばかりであった。
むろん、華陰へはいったところで、やれ助かったという話では終わらない。それはまだほんの始まり。だが賊の執拗な追跡がとりあえずやむ。
李・郭とて、いくらなんでも何の遺恨もない段煨を攻める手はない。大人しく交渉の席につなぐことはできるだろうし、また張済にせよ、二将を目の前にしては強硬な態度にもでれぬはずだ。時を稼げれば白波谷からの援軍も間にあって、渡河へともちこめる芽もでよう。
かくなる上は段太守にお縋りするしかない。最後の希望は段様だ。かれに張済を説得してもらい、軍を下げさせるしか道はない······!
思い至った琴箭は、せかせかと楊彪らの天幕へとむかった。
そんな彼女の背を上空からながめる眼があった。
「··················」
月塊から彼女の護衛をたくされ、やっと探しあてた桃霞であった。
ひさしぶりに目にした姉御は、まるで男のような恰好で具足など身につけ、つねに眉間にシワをよせて難しい顔をしている。それでも十年ぶりに会えた。すぐにでもとび出していって抱きしめてもらいたい!
だが······その想いとは裏腹に、彼女の琴箭に向けられた瞳は暗いものにおおわれていた。忌避したい、という本能に。
「気づいたか?」
いつの間にか隣りにいたお師匠様──太玄女の声にも、桃霞は視線をあげない。ただ了承のあかしと、コクン、とうなずいてみせるのみ。
「······みえます。姉御の、まわりを············」
天仙である桃霞の瞳には、その黒く、おぞましいものははっきりと映っていた。
あれは──そう、喩えるなら蝗だ。
ときに波のごとくおし寄せ、稲麦はおろか草の一本さえのこさず喰らい尽くす大飛蝗の群。それににた黒いなにかが、琴箭の清浄な絹のような〈氣〉を、外周からミリミリと蝕んでいるではないか。
「あれは澱よ。天がさだめた時代の澱······本来であればあれが共をする漢の天子が負うべきもの。そのはずであった。だがそれを──天のとり決めを幸か不幸か、あの娘は覆してしまったのだ。肩代わり······というにはあまりにも重い枷よな······」
桃霞はこたえられず、ただ琴箭を直視しつづけた。だが瞳にはありありと葛藤があらわれている。
「······聞き分けよ。これ以上、おまえも関わってはならぬ。雛とはいえ、天仙であるおまえまでが手を貸せば、あの者の天命をさらに蝕むだけじゃぞ」
きゅっ、と桃霞は唇をつよく結んだ。もしそうなら、自分が助けようとすればするほど、姉御をくるしめることになる············
が、頭ではわかっていても、どうしても心で納得できるものではない。どうしてこのまま、姉御を見殺しにできようものか······!
とにかく見守ろう。もし兄貴がいっていた危険な奴が姉御になにかしようとしたら、その時は構わずにわってはいろう。
桃霞はひそかにそんな決心した。




