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【完結】月琴伝  作者: 雲野 蜻蛉
石胎箴緯
321/403

桃霞、琴箭に天命のかげりをみること


 まったく忌々しい。もう見えているのに! ホンのすこし足を延ばせばとどく距離であるというのに! かくも華陰までの道が遠いとは!


 せっかく長安という檻を脱して、とびだした先は縛めの天井も壁もない原野。それでも変わらず檻でありつづける。いったいいかにすれば、この見えざる格子(こうし)をつき破れるのか。

 それでもあとすこし、もうちょっとだということは確かなのだ。琴箭の胸中は燃えんがばかりであった。


 むろん、華陰へはいったところで、やれ助かったという話では終わらない。それはまだほんの始まり。だが賊の執拗な追跡がとりあえずやむ。

 李・郭とて、いくらなんでも何の遺恨もない段煨(だんけい)を攻める手はない。大人しく交渉の席につなぐことはできるだろうし、また張済にせよ、二将を目の前にしては強硬な態度にもでれぬはずだ。時を稼げれば白波谷からの援軍も間にあって、渡河へともちこめる芽もでよう。


 かくなる上は段太守にお(すが)りするしかない。最後の希望は段様だ。かれに張済を説得してもらい、軍を下げさせるしか道はない······!

 思い至った琴箭は、せかせかと楊彪らの天幕へとむかった。




 そんな彼女の背を上空からながめる眼があった。



「··················」


 月塊から彼女の護衛をたくされ、やっと探しあてた桃霞であった。



 ひさしぶりに目にした姉御は、まるで男のような恰好(ナリ)で具足など身につけ、つねに眉間にシワをよせて難しい顔をしている。それでも十年ぶりに会えた。すぐにでもとび出していって抱きしめてもらいたい!

 だが······その想いとは裏腹に、彼女の琴箭に向けられた瞳は暗いものにおおわれていた。忌避したい、という本能に。



「気づいたか?」


 いつの間にか隣りにいたお師匠様──太玄女の声にも、桃霞は視線をあげない。ただ了承のあかしと、コクン、とうなずいてみせるのみ。


「······みえます。姉御の、まわりを············」


 天仙である桃霞の瞳には、その黒く、おぞましいものははっきりと映っていた。

 あれは──そう、(たと)えるなら(イナゴ)だ。 

 ときに波のごとくおし寄せ、稲麦はおろか草の一本さえのこさず喰らい尽くす大飛蝗の群。それににた黒いなにかが、琴箭の清浄な絹のような〈氣〉を、外周からミリミリと蝕んでいるではないか。


「あれは(おり)よ。天がさだめた時代の澱······本来であればあれが共をする漢の天子が負うべきもの。そのはずであった。だがそれを──天のとり決めを幸か不幸か、あの娘は覆してしまったのだ。肩代わり······というにはあまりにも重い枷よな······」


 桃霞はこたえられず、ただ琴箭を直視しつづけた。だが瞳にはありありと葛藤があらわれている。


「······聞き分けよ。これ以上、おまえも関わってはならぬ。(ひな)とはいえ、天仙であるおまえまでが手を貸せば、あの者の天命をさらに蝕むだけじゃぞ」


 きゅっ、と桃霞は唇をつよく結んだ。もしそうなら、自分が助けようとすればするほど、姉御をくるしめることになる············

 が、頭ではわかっていても、どうしても心で納得できるものではない。どうしてこのまま、姉御を見殺しにできようものか······!


 とにかく見守ろう。もし兄貴がいっていた危険な奴が姉御になにかしようとしたら、その時は構わずにわってはいろう。


 桃霞はひそかにそんな決心した。


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