琴箭、賈 詡と論戦におよぶこと②
「我々の間に横たわる問題······か」
賈 詡は口元だけでフッと笑み、すぐにそれをひっ込める。
「果たしてそんな問題、まことにあるのでしょうか」
「······どういう意味でしょう」
「私どもは、陛下がご無事に長安脱出を達されることを望んでいる」
「我々もです」
「みごと李・郭の追撃をふり切ってね」
「同感です」
「······であればとこが違うとおっしゃるか。我らの願いはひとつなはず」
「目的とする場所がちがうのです」
琴箭は毅然といいはなった。
「まさにそこが重要なのです」
琴箭は夕陽のさしこむ窓辺をはなれ、賈 詡の対面へときてズイ、と右手を突きだした。掌をみせ、中指、薬指、小指のみをおし立ててみせる。
「はばかりながら、このまま進めば張将軍はみっつの過ちをおかすことになりまする」
「ホゥ」拝聴しましょう? とばかり賈 詡はゆったりとかまえた。
琴箭は立てていた中指をおる。
「ひとつ。
李・郭の非行は天下に知れわたっており、隠せるものではない。いっぽう、張将軍は陛下によって平陽侯に任じられ、弘農をまかされた。せっかく二将とは一線をかくし、その行いの正しからずを諌められる立場にいながら、このうえ躍起になって陛下のご意思を曲げられては、しょせん二将に違わずといわれても仕方のないことでありましょう。損であります」
「············」
「ふたつ」と琴箭はさらに薬指をおる。
「かりに陛下を弘農へお迎えしても、背後へ不安をかかえることになりましょう。
張将軍が筆頭にたつことを李、郭ともによくは思わないことは疑いない。ましていまや、彼らはふたたび手をとりあう仲となった。おひとりのみ突出し、背後から六万もの兵に脅かされた状況で、京兆尹から弘農の諸県──たとえば華陰の段太守らも、はたしてお味方くださるでしょうか。万一やりおおせたとしても、おおきく力を削がれることは避けられませぬ。これではとても陛下をお護りすることは適いませぬ」
「············」
琴箭は最後にのこった小指をおる。
「そしてみっつ。
陛下の往く道を閉ざすことは、不忠者しか生みだしませぬ。一刻の欲は明日の恥。無礼ながら文和どのは張の小将軍(張繡)に、小将軍は張将軍に。そして張将軍は畏れ多くも皇帝陛下に不忠をなし奉ることになる。天下の名士はこれを責め、こぞって貴方がたの敵につくことでしょう」
陽はさらに落ち、室内はますます闇が勝っていくようだ。まだしも朱の温かみののこる位置から、紺のよどむところへと琴箭は腕をさげた。沈黙がじりじりと時を充たす。いずこでか、たまりかねたように虫が声をあげ始めた。
ゴソリ、と賈 詡が身じろぎするのがわかる。
「······苦しいですな」
「······っ」
彼は撫でていた顎から手をはなし、あらためて袖をあわせて言った。
「高説痛みいる。では私からもみっつほど······」
琴箭は冷えてゆく心の臓の動揺を面にださぬよう必死にこらえた。
「ひとつ。
貴女はお優しくも張将軍の名誉をご心配くださった。たしかに李・郭の陛下への行いは許し難し。されどこれに憤られた陛下が、かつて恩を施されし張将軍に頼られることのどこに不思議がありましょうや。むしろこれに応えざるこそ大罪と存ずる。
ふたつ。
張将軍はあくまでも一時的に陛下を弘農へお迎えあそばすのであって、なにも弘農を新都にしようなどとは考えてもおられぬ。
貴殿らは洛陽、洛陽と口をすっぱくするが、いまの都に還ってなにができましょうや。
お忘れではありますまい? 都はさきの董相国の一件で炎に没し、のこるは焼け焦げた残骸のみ。そこへ陛下をお連れするのですかな?
それよりも都を建てなおすまでの間、弘農にお留まりになられ、再建のなった後にお帰りになられても遅くはありますまい。われらが弘農から洛陽は目と鼻のさきにござる。
もちろん、李・郭もこれを認めざるをえますまい。なぜならば、陛下は御自ら詔をもって二将の仲をつくろえとお命じになった。それは両者とも存じおりのこと。これをないがしろにして朝敵となるよりは、まだしも陛下と張将軍を味方のままにしておいたほうが益がある。ゆえに涼州勢同士の争いなど起きはせぬ。
最後のみっつめ。
主人の不足をおぎなってこそ、臣の臣たるゆえんであり、価値でありましょう。主人が誤れば身をもって諌めるのが臣下の道。阿諛追従のみすることこそ不忠者の所業。
いま、弘農を素通りして帰還されたとしても、内輪揉め必至な朝臣の方々に真の忠がなせましょうや。そうなるよりは、重しとなる将軍のそばにあってこそ無駄な争いも生じず、皆にとって善いことであろう。ご聡明な陛下のこと、きっとおわかりのはず」
わかってはいたことだ。両者の意見がかみ合わぬことは最初から。
ぐっ、と琴箭は奥歯を噛みしめる。それでもどこぞに妥協を見いだせるとすがった。その読みだけは間違っていなかったように思う。主である張済の真意はわからなくなったが、すくなくとも賈 詡には、もちろん張済のために語ったのだろうけれど、漢の士としての想いがあるのだと感じられる。
だが、ふたりはあくまでも違うのだ。
「······では、どうあっても決断は願えませぬか」
「どうかな。決断をいそぐべきは貴女がたのほうではござらぬか」
「「··················」」
無言のままふたりは睨みあったが、その後はついに語ることはなかった。
賈 詡は首をよこに振ると先に外へで、馬の綱をといてまたがった。
「選ぶべき道はひとつなはず。それはお主こそよく解っているだろう。蔡琴箭よ······」
そうつぶやいて駆け去るのであった。
結局、この日以降の折衝は物別れに終わった。誰の目にも張済の側に分があることは明白であり、たとえ誰がどんな言葉をからめようと、これを覆せるはずもなかったのである。




