忠臣ら、主をおもうこと
なんとか天子の容態ももちなおし、一行が新豊を発てるときがやってきた。
ありがたいことにあれから郭汜軍の足もにぶく、いまだ追いつかれる気配はない。こちらの予想外に李傕軍との戦闘が長引いているということだろう。
天子につき従うのは楊彪、董承、伏完ら以下の朝臣と琴箭。新豊には後詰めとして志願した楊定が自軍をもって残ることになった。
「ではすまんが、頼む」
楊彪の言葉に城外まで送りにでた楊定は礼をかえし、天子ののる車へと拝礼をした。一行は、楊彪の出立の声にのって車輪を軋ませ、東進を再開させる。
「わかっているな」
楊定の軍にまぎれていた赤霄が彼に近づいて声をひそめる。最大の兵をかかえる楊定が抜けて護衛力に不安のでた本隊への補填として、一隊をさいて充てることになっていた。
泰阿はフフンと不敵な笑みをみせ赤霄に応えた。
「わかっておるわ。すべては主のため······だからな」
「······こうまでしても、むざむざ敵の待ちかまえている華陰に向かわねばならぬとは」
やっと先へすすめることは嬉しいが、やはり楊彪は口惜しくてならない。こうも無慈悲に道を遮られ遮られされれば、噛みついても無駄だとはわかってはいても、天下の要害でさえ恨めしく思えてならない。
「わかるが、仕方ない。たとえ陛下の御身体が万全だったとしても、やはり渡河は容易にはゆかなかったろう」
伏完は気負いすぎる彼を気遣って言葉をかけるのだった。
この広すぎる見えざる檻、なんとしても突き破らねば漢朝に明日はない。
天子の車につき従いながら、馬上の赤霄は、いつかの初夏の宵を思いだしていた。
「いま、何と仰られましたか? 奴らを放っておけと?」
赤霄は我が耳をうたがって問いなおした。だが彼の主の言は過ちではなく、その内容が変わることはなかった。
「そうだ。朝臣どもにかまう必要はなくなった」
まだ昼間の熱気をすこし残した夜風がとおる奥殿で、ひさびさに天仙の主従が顔をそろえていた。
「なにゆえでしょう」泰阿も不満、というではないが、解せぬといった顔で主をみる。
誰に見られるかわからない。その折の用心のために張済に化身したままの麻姑は、腰のうしろで手をくんで夜空をみあげていた。
「朝臣ども、おもったよりも使えそうだ。天の記したところでは、事あきらめて潰えるとあった。だが実のところはその忠心に疑いない」
「信じる、と仰るか······人を」
「まあ、そんなところだ。いかに天帝の思し召しとて、人そのものが変えた道筋までただされることはない。無論、それは容易なことではないがな」
「しかし······なせるでしょうか、あのような者たちに」
「······誤算だったのは、蔡琴箭」
ぽそりと主の呟いたその名に、臣下ふたりは顔をみあわせる。
「あの者がこのとき、長安におったこと。そして、朝臣らや皇帝までがあの者を信じたこと。それが天の予測を書き換えたのだろう」
「蔡琴箭、ね。吾は会ったことはないが、そんなに上等なものなのですかな」
チラ、と赤霄のほうへ視線をなげ無言でたずねるが、彼は不快そうに眉をうごかしたのみだった。
「上等か、と問われれば、奴自身はそのへんの人間となんら変わるところはない。差異があるとすれば、やつは様々に奇特な体験をへて、奇特な縁をよってきたということだ」
「まさか──あの半端者の妖くずれのことを仰ておられるのでありますか? あのような者に世の流れをどうこうする力がおありと?」
スッ、と張済は赤霄をみすえた。射すくめられたように赤霄はまだひらきかけていた口を閉じるが、くやしさに下唇をかむことだけは止めようがない。
「ほう。我が主にそこまで言わせるほどですか。そいつは残念ですな。じつに残念······」
泰阿のほうは舌なめずりするように口の端をゆがめている。張済の姿をした麻姑は、それをたしなめるようにハァ、と息をはいた。
「手を出すでないぞ泰阿よ。なにも私は、月塊君がどうのだと言っておるわけでもない。むろん褒めてもおらぬ。が、奴とて妖。本来常人が睦まじくできるモノでもあるまい? それがああして揃って朋でおる。その希少なつながりこそが、流れを変えるといっておるのだよ」
は、とふたりは不承不承にもうなずいてみせる。張済はもういちど星の群れをみあげ、目を細める。
「とにかく放っておくのだ。むろん、我が目的も果たしてみせる。無闇に時の流れに介入して、その方らまで罰せられることを私は望まぬ」
それは我らとておなじこと。天から主人が罰せられるのをただ黙って座視できようものか。朝臣どもがそうであるように、我らとて······
すべては主の御為。そのためならば、たとえどのような咎を成そうとも、俺は──!
その鋭い視線は危険な光をはらんで、前をゆく御車にむけられた。
敗れることは絶対にあってはならぬ、新豊での防衛戦がはじまる。




