梅春、すくわれること
涙で滲む目で前方をキッとにらみ、琴箭は闇の通路を進んだ。それはなにも彼女の強さゆえではない。むしろ反対であった。そうでもしていなければ、この一歩を踏みだす気力さえ萎えてしまいそうだったからだ。
あの後。
あの不快な仙人にひと牙突きたてた後、上室にいたすべての書生らは動きを止めた。
むろん夫・仲道も。まるで遺体へともどったかのように、一瞬前までの恰好で石のように動かなくなった。おそらく一時的にもおぞましい術の影響から脱したのだと琴箭は理解した。
今をおいてこの時よりなし。琴箭は砕けた麒麟の隠し剣の破片を拾い集めると、仲道の頭上にかかげもった。
「お願い······」
祈りをこめてそれをふりかける。破片は落ちる最中にもより細かくなって光の粉となり、動かなくなった仲道のうえに降り積もる。
──と、彼の身体がうっすらと輝きはじめ、蒼き玉へと変じたかと思うと、虹色の光を放って崩れた。
後はもう、ふり返ることも出来なかった。嗚咽をこらえ口元を抑えながらながら室をとび出し、遮二無二になって戻ってきたのだった。
「······♪······♪······♪」
酔ったようにふらふら歩く琴箭の耳に、節のついた唄らしき響きが聞こえてきた。悲しみにかすれ呟くような調子である。
誘われるままに進み、岩壁の隙間、隠れるようにある小部屋にきづき、そこに入ると、はたしてそこには梅春がいた。
「♪〜♪〜」
壁にもたれ、虚ろな両の眼をして、故郷の唄だろうか、口ずさんでいる。その胸中にあるのは、昨日仙人の遣いとなって訪ねてきたあの男であった。やはり仲道らと同様、ぴくりとも動かない。
「梅春······」
その光景の偉容にうたれて、琴箭はそのさきを言えなかった。こちらに気づいた梅春は、胡乱な瞳をこちらに向けたかとおもうとまたゆるゆると戻し、口ずさみを再開させる。
何があったか。なにが起こっているのか、痛いほどわかる。これはきっと自分のせいでもあるのだろう。でも。
「たって梅春。ここにいては駄目。逃げなけりゃいけないのよ」
「······」
梅春の返事はない。琴箭はしゃがみ込むと彼女の手に己が手をそっと重ねる。
「ね、梅春、たつの。立って······こんな所で死ぬなんて駄目。それはこの方だって望んでないはずよ」
ギロリと、はじめて梅春の瞳が鋭く琴箭をとらえる。
「望んでいない? どうして? どうして貴女にそんなことがわかるんです。貴女のような人に私達下々のなにが理解るというんです。この人のいったい何が······ッ!」
「······そう。わかる、とはいえない。けれど思いやることはできる。······もし貴女がこの人の立場だったなら、貴女はけっしてそんなことを望まないはずだってこと。彼に生きてといえる女でしょ、貴女は! そんな貴女のえらんだ人じゃない!」
「··················」
その時。まるで地の底を突き上げるような揺れが足下を震わせた。同時刻、月塊も感じたあの衝動だ。
琴箭も梅春も、体の芯からくる怖れで震えあがった。
「梅春っ!」
「い、いいんです! 放っておいて──」
ムクリ。わずかに。梅春に抱きとめられた謝伸の肉体が身じろぎした気がした。いや、気のせいなんかではなかった。彼はたしかに梅春の懐をはなれ、立ちあがった。
「──謝伸さんっ」
「──ウガァァッ!!」
「アッ!」
ただ無造作に振り回されただけの腕が当たっただけで琴箭の体がふっ飛んだ。壁に叩きつけられた後嫌な落ち方をしてしまい、足首をしたたかひねった。
「! 謝伸さん!? ッッ!!」
ものも言わず、謝伸は今度は梅春の挑みかかり、その首を両手でしめつけ、おそろしい怪力で宙へ吊りあげる。
「ッ············!!!」
みるみる梅春の顔色が青ざめてゆく。
「ッ──えぇぁッ!」
痛みを堪えた琴箭が其の足元へ突進を仕掛けたことで、崩れかけた身体を支えるために、梅春にかけた手が離れる。
「今!」
琴箭はむせ返る梅春の腕をガッシとつかむと、強引にひっぱりたて逃げだした。
この謝伸、張道陵の側付きとして、やや上等にできていた。だから琴箭なぞの力なんかでもどうにかなったのである。もし彼がもっと粗悪に扱われていたなら、倒れようが蹴られようが、けっして梅春の首を離さなかったであろう。
ふたりの女は息を弾ませ、許せる限りの全速力で洞道を行った。後ろからは謝伸が迫ってくる。ゆえに外へと出る道は自然と塞がれ、どこへと迷う間もなく、ふたりの行く先はもはやひとつしかなかった。
蓮伽宮──
さしもの静謐なる神域も、度重なる無法によって姿をおおきく乱していた。
それでも琴箭の驚きを買うには充分だった。さぞ美しかったろう宮の屋根といわず柱といわず、あちこちが崩れ落ちていて、まるで何者かが大格闘をしたような痕である。しかも湖からは不気味な植物の──それも巨大で太い──蔦が這いだしていて、それらが首を打たれた蛇のように横たわっていた。
「これは······いったい何が?」
仙人の姿はどこにもなかった。それは幸運といえたが、ではいったいどこへ消えたのだろうか。
この頃になると梅春もやっと気をとり直してきていて、まだ納得はできていなかったけれども、琴箭に迷惑をかけたことは解っていた。なので彼女を座らせると、宮の残ったあちこちを調べた。これほど不可思議を凝縮した場所の最奥なのだ。何が、助かるためのなにかがあってもおかしくはない。
例えばそう──秘密の抜け道のような何か······
「! ······あった······」
乞い願ったとはいえ、一瞬わが目を疑った。
崩れた瓦礫のひとつ。壁であったと思われる箇所に、ひとつのおおきな窓があった。そう、この魔境へとはいる際にくぐってきた窓と同じものだ。
壁そのものはすっかりはがれ落ちてしまっているが、これまた運良く伏してはいなかったので、窓自体はふさがっておらず、しかもまだ活きているようだった。まるで湖の水面を移したように、時々こまかな光のさざめきを揺るがせている。
「あった! ありましたよ琴せ」ふり返った梅春の言葉はしかし、そこでぷっつりと途切れた。
汚濁と化した湖から巨大な水蛇のごとく、先端に禍々しい蕾をぶら下げた蔦が、鎌首を持ち上げていた。それが目もないくせに、しっかりとふたりを狙っているのである。まるで飢えた獣の涎のように、八筋の割れ目からポタリと滴がおちた。
「!」
ふたりは走っていた。琴箭は梅春のほうへ、梅春は琴箭のほうへ。
シュアアアァーッッ!
空気を裂くように巨大蔦は地面を這い、うえへと伸び上がると、いまにもふたりを嚥まんとした。
梅春は無事琴箭を抱きとめて窓の方へと走っていくが、不吉な影に抗えず振り返ってみると、真っ赤な口をひらいた蕾はもう眼前まで迫っているではないか。窓はすぐそこ。あと二歩あるかないかというところ。だが──
駄目だ、間に合わない。
死を悟った。と、間に人影が割ってはいった。
「──謝伸さん!」
はたしてそれは彼の遺志だったのか。それともたんに暴力に身を任せた結果に過ぎぬのか。ともかくも謝伸は彼女らを突き飛ばした。そしてふたりは背中から窓へと落ちたのである。
最後の瞬間、たしかに梅春はみた。こちらを覗きこむ謝伸の顔と、背後に迫った化け物蔦の開かれた口を。
そして意識はまたもぶっつりと途切れた。




