月塊、始源の神域にたつこと
不吉な天候はおさまることがなかった。
数日前に湧いてでた黒雲はいっこう去る気配なく、狭間を雷が我が物顔で遊びまわり、人々の不安を煽りてる。
まったくあの空はどうしてしまったか。普段は天気なぞ気にかけない単福でさえ、これは只事ならぬと馬をとめて仰いだほどである。
「いったいどうなってんだ、こりゃあ──ん?」
目の錯覚か? 何もないただの野っぱらの景色がうねうねと歪み、そこからヘンな形をした家屋がのぞいているような······。逆にいま発ってきた里の方を見れば、そこにはあるはずのない池が、おぼろに重なってみえる。
目をこすってみたがその幻視は消えることなく、むしろ虫が葉を食い荒らすように、ゆっくりジワジワと拡がっていく。
「······いったい何なんだよ、こいつぁ······」
答えもないまま、単福は里人らともにその奇観に魅入っていた。
異界、魔境、常世。
様々な呼び方でよんできたこの山海境の、中心にして、最高峰にして最深部。ひとつの柱──いや、大地からそびえるとてつもなく巨大な樹の根方にもみえる山塊があった。
その歴史はとても古い。なにせこの魔境が生まれたときから存在していたのだから。もちろん現世の、大地に根ざす山々とでは比すべくもないが、過ごしてきた澱のごとき濃密な時を想えば、けっしてひけをとるものでもなかろう。
それでもあまりに古い、威容充分にして原始の躍動の名残をとどめたその山の名は、近隣に住まいする妖獣たちにさえ伝わってはいなかった。
便宜上、山の仙人、真人の山ということで、真人山と呼ぶことにしよう。
勢いよく大窓に飛び込んだためか、そのままの勢いで月塊はそとへとまろび出た。
「って!──クソッあの野郎、どこ行きやがった!」
辺りはシンと静まり返っている。山中で森であるはずなのに、鳥一羽の囀りさえない。
周囲をとり巻くのは圧倒的な風の音。
渦巻き、唸り、一瞬も途切れることのない風の音だ。雲なのか霧なのか、白いものがたゆたっていたが、引き千切られるようにして流れてゆく。
これでは両耳をふざかれたも同然である。さしもの月塊も、怒りを鎮めて冷静さをとり戻さねば、と気持ちをあらためねばならなかった。
「あん?」
早速パラパラッとなにかが左方から飛んでくる、と彼は瞬時に判断した。
この俺に岩とはしゃらくせえ!
叩き落としてやらんと半身をひねって迎撃の構えをとるが、しかし──
「!!」
それは山! 霧を割ってでたのは岩くれなどという可愛いものではない。小山ほどもあるとんでもない重さをもつであろう固まりが、いかなる力を用いてか、まるで蛇のように連なって迫ってくるのだ!
「ぐぎッ!」
避けようハズもなく、月塊はほんのお情け程度の防御態勢のままそれをくらう。
まるで大地から生えた巨大な剛腕にぶん殴られたようだ。何とか潰されずに遥か弾き飛ばされてしまったのは幸運だったかもしれない。それでも棍を突き立ててガリガリと地面を削りながらなんとか制止する。
だがつぎの瞬間、ズルッと滑べらせた足裏から地面の感触がふいに消えたときは、さしもの彼も冷っとした。待ちかねたふうに劇的に、霧が晴れてゆく。
「っ」
愕然とした。そこは斬り断った──そう、まさしく「切った」ではなく「斬った」と書いたほうが適した断崖絶壁の淵であった。
巨大な刃物で断ち割ったような痕も生々しい黄白色の岩肌は、はるか何千丈も下に、みえなくなるまで続いている。
途中のわずかなひっかかりに、誰が、いつ、いかようにして建てたか房のようなものがいくつかみえた。それらにしても、絶壁にへばりつくようにある頼りない石段によって結ばれているだけだ。
『あれは仙人らの遊覧所よ』
どこからか声が聞こえた。乙越のものではない、老人の声だ。
『ここがそもそも、仙人たちの遊避所であったときの名残だ』
「······遊び処だあ?」月塊はよじ登りながらも顔をしかめる。
『外界ははるか神話の世に巨人・盤古の亡骸の上になったともきくが、この山海境はここ、原初の山からはじまった。お前がたつのは、この世においてこの上なくもっとも神々しい場所なのだ』
「へっ、だから有難がれってかい。押し付けがましいこって」
忍び笑いする声。
『百年ぶりの客だ。いまは好ましくないがな』
「ケッ。だったらお生憎様だ。すぐソッチに行ってやらぁ!」




