蔡琴箭、とりもどすこと
すこしだけまき戻ります。
息をつめて振り向いた先にいたのは、黒衣長髪、首になにやらゴツいものを巻きつけた目立つ恰好の美男子であった。そう、もう随分と前の出来事にも思える、あの夕暮れのなかであった得体のしれぬ男だ。
「······貴方······ッ。やっと会えた」
「? おや。君の方で私を探してくれていたとは。なんだ。ならすぐにでも顔を見せるべきだったな」
青年は険しい瞳でにらむ琴箭に、あえて煽るような調子でかえした。
「なんてね。じつはできる限り、君には自力でここまで来てほしかったんだ。君がみた通りの人で助かったよ」
「貴方──いったい何なの?」
「······そうか、名乗っていなかったか。私は藍乙越。君らいうところの仙人、さ」
仙人。そう説かれても琴箭の表情に驚きはみられなかった。ただまじまじと乙越をみつめる。
仙人······? これが──月塊の目指していた者······。
「さて、話を戻すが、君にそんなことをされては困るのだ。彼は優秀な導き手だし、私にしたって、すでにいちおう死んでいるとはいえ、妻であるキミに、夫を手にかけて欲しくはないからね」
「······では何が──どうやったら貴方の望みに叶うのかしら」
「それは勿論」バサリと右の袖をひろげて乙越は、豪華な一室を誇るようにいった。「ここで夫君とともに事に従事してもらうことさ」
琴箭はチラと目を走らせ、黙々と筆を走らせる数名の墨家をみやる。
「山海経を世に拡めるために、そして山海経そのものが天下を呑み尽くすために? それには私も死ななければならないのかしら」
「いやいや、君はトクベツだ。もちろん長くかかればご亭主とお揃いにはしてあげるけれど、君はこのなかでも一等稀有な存在だ。
幼くして妖と出逢い、異なる世への眼を開いてきた。しかもあまつさえそれらと触れ合い語らってきた。そのうえ今や気鋭の書家だ。そんな存在はこの先願っても現れぬだろう」
これはまた、思わぬところから絶大なる称賛を頂いたものだ。ちっとも嬉しくはないが。
「身に余る評価ですわね。だから朽ちるまで使い倒そうってわけ? 月塊の奴がきいたら何て言うかしら」
ピクリ、と乙越の表情が一瞬固まる。が、すぐに不敵な笑みとともにそれを吐き捨てた。
「ああ、そういうヒトもいたっけねぇ」
「ッッ!」
はじかれたように琴箭が動いた。鉄扇をひろげると、ままよ、とばかり亡骸の仲道に狙いを定める。やらせぬとばかり乙越がサッと袖をはらうと、両者の間に不意の突風がおこり、驚いた琴箭は堪えきれずに机をいくつか巻きこみながら室の中程までおおきく弾かれた。
「!」
起きあがるさいに手をかけた机をみて、琴箭は思わずゾッとして息を呑んだ。その黒光りする面の隅に刻まれていたのは······
──蔡琴箭 座。
「そうさ、そこが君の席だ。ずううっと用意して、待っていたんだよ?」
四つん這いで起きあがった琴箭に、乙越は幾分冷徹な瞳をむけた。
「無駄だよ。もうお終いだ。私があらわれた以上、君に選ぶ先なんかないのだ」
痛みをこらえて立ち上がり、やむを得ない、開いていた扉から大広間のほうへとって返す。
ドサリ、とけつまづいて通路に身を投げだした琴箭を亡者の書生が注視する。
駄目だ。あんなのがいてはとても目的を果たすことなぞ出来ない。やっとここまで、ここまで来ておいて······ッ。
ヌッ──
突如、段になった広間の底からぬっと人影が現れたかとおもうと、いきなり琴箭を恐ろしい力でねじ伏せ、吊りあげた。
「うえっ······!?」
か細い力で抵抗しながら必死に目をやると、そこにいたのは
「りゅゔ······栄ッ万ッ······!」
そう。柳栄万の変わり果てた姿だった。
······ためだ。こんどこそ······いしきが······とおのく
グワッ!
ふたたび突風が巻き起こり、力づくで両者をひっ剥がす。
ヒューヒューと喉を鳴らしながら座り込む彼女の背後では、乙越がまさしく虫でも見るような目つきで、懲りずに這い上がってこようとする栄万を見下している。
「いや、申し訳なかったね。彼はさっき処置して放り込んだばかりだからか、躾が足りないらしい。それにしても」
段のふちに手をかけた彼を、乙越は心底嫌悪するように吐き捨てる。
「何とおぞましく浅ましいのだ。そんな姿になってまだ求めるか」
ガスツ、と、かけられた手を踏みつけにする。
「ほれ、どうした、もっと頑張れよ」
嘲るような口調とは裏腹に、足蹴の勢いも間隔もどんどん速まってゆく。
ゲシッ! とうとう最後の足蹴が放たれ、栄万だったものは呆気なく暗闇の向こうへときえた。
「······ッ。貴方にはっ、死者への慈悲というものがないの」
「死者だって? そんなものはどうでもいい。問題なのは生きている君たちの方だ」
そして乙越は、さきほどとは全く変わって、異様なほど柔らかな調子で囁く。
「そう、君だよ。なぜこんな無駄をするのだい? 辛い辛い旅を経てやっと会えたのじゃないのかい? 君は亡きあの愛しき人に会いたくてたまらなかったのだ。だからここまで来た──否、来れたのだろう?」
「······そうかもしれない。いえ、きっとそうなんだわ。私はまた仲道に会いたかった。会いたくて会いたくて、だからここまで来られたのよ······」
「ふん?」素直でよろしいとばかり、乙越は続きの言葉を待つ。
「でもこれ以上は間違ってる。それは······私の我儘よ」
そう。なぜ夫がここまで来る力を私にくれたのか······。考えるんだ。そして──
「私の衛仲道なら、それでよしなんて言わない」
ギロリ。乙越の形相が見難いほどに歪む。
「私は解放するために呼ばれたのよ! 貴方から──そして私の過ちから彼をッ! 返してもらうわッ!」
いい様鉄扇をひろげ旋風を放つ。が、流石に仙人。乙越も表面からまともに食らうことはない。物わかりの悪いものへの嘲りの笑みを浮かべ、なお泰然として立つ。
「どうやってか? まさかその扇で──」
ピシッ。
言いかけたところに何かが割って入る。みると仙人の左足首からさきがしっかと緑柱に呑まれているではないか。
「なに?」
通じる! 麒麟の力は仙人とても通じる!
「ええい!」左肩の上から吹き降ろすように一気に薙ぎ払う。豪風が空間を乱し、机も紙も巻き上げる。
「ぐっ! まさかそれは天の──」
次の行動をゆるさず、琴箭は閉じた扇の部位をさっと払うと、我が身もろとも乙越めがけて突っ込む。
「······!」
身体すべての重みを乗せて真一文字に突き立ったのは、仕込みの剣。
当然のごとく天獣の力の宿りしそれは、乙越の内部から侵食し、すべてを玉塊に変えんと威を奮った。これぞ琴箭の隠し持った最大にして最後の切り札であった。
「ぐ······ぉおおおッ······!? バカな! バカなァ──────ッ!!」
「キャッ!」
グワン!
仙人が咆哮すると同時、お返しのように突風が巻きおこり、琴箭を跳ね飛ばす。パキィン、と切なげな音をたてて、麒麟の秘刃が折れ散った。
「バカな······! ワシはワシは、仙人!! なのだぞぉぉぉぉ············ッッ!!!」
侵食の痛みにもがき苦しみながら、乙越は苦々しげ天へと右腕をのばすと、まるで陽炎のごとくスウッ······と闇に解けて消えたのだった。




