仙人、深窓に消えること
──南山最北部。
萊萊は雲がかり翳ってゆく中山の山々を不安そうにみあげた。
ここからみえる最も北の中山の山並みをみても、ああしてけぶってゆく。ああ、ましてもっと遠方の北山最奥の山のことなぞ、どうしてうかがい知ることができよう。もう自分には祈る以外のことは出来ないのだ。
「琴箭······」
「ん······」
黒い靄が目の前よりとり払われ、ぼんやりとした意識が浮かび上がってくると同時、視界が戻ってきた。
梅春は横たえられた身をゆっくりと起こした。気絶していたらしい。目覚めの気分は最悪だ。
「ん? 目が覚めたか」
人の声にギョッとして仰ぐと、そこには彼女を気づかう男の人影があった。暗がりでその影はおぼろに像をむすぶ。
「ああ! 謝伸さんっ!」
おもわずがばと身をぶつけるようにして抱きつくと、相手はびっくりしたように尻餅をついた。「謝伸さんっ! 謝伸さんっ!」
「お、おい、落ち着けっての。誰だよ、謝伸って」
むりやりひっ剥がされ、梅春の夢想は一瞬にして晴れた。自分の肩をつかんだ手も、力も、そして声もまったく他人のものだ。それでも半々疑いながらまじまじと相手をみる。
やはり別人であった。背も体格も、どちらかといえばある謝伸と比べれば小振りだし、青年のような、少年のような体躯。ましてや鎧具足をまとい、硬そうな黒鉄の髪を結いあげている。
「ようやく目が醒めたか。やっと話が聞けるぜ」
月塊はやれやれ、といった感じに息をついた。まったく見も知らぬ男にすがりついていたと知った梅春はバッととび退き、今度は岩壁にくっついてまじまじとその男をみた。
薄暗いなかでもあるが、なんとも妙な男だ。どこが、と訊かれても巧くは言えないのだが、どこか余人とは違う。あるいは右腕を失って片輪であることが、そう感じさせるのだろうか。
なにゆえ月塊がこうもはやくこの場にいられるのか?
それはひとえに、萊萊の手柄である。
琴箭が北山に到着したことは老師によって全域に伝わった。いわば、先の条件が解除されたのである。それを受けとった萊萊が月塊に注進し、そのおかげで彼は時を逸せず北山まですっ飛んでくることが出来たのだった。
ふと、梅春の視線が横へとそれる。と、
「謝伸さん!」
慌てて駆けより抱きおこす。今度こそは間違いない。少年のもつ灯火に浮いた顔はまごうことなく彼のものである。
「謝伸さん! 謝伸さんッ!」
揺り動かすが、目を閉じた謝伸は、それこそ死んだように動かない。
「どうしてこんな······! ──まさか貴方ッ」
「おいよせ、知るかよ。勝手に動かなくなりやがったんだ」
その返事に梅春は全身のうぶ毛が逆立つのを感じた。
「つってもどのみち動けなくはしただろうけどよ。邪魔だったんでな。ソイツはハナから死んでる」
「──ウソよ! アンタがッ······! アンタが!」
「ウソじゃねえ。ガナりたい気持ちはわかるが声を抑えないとみつかるぜ。······ソイツの魂魄はもう地上にはねぇ。身体が動いていただけだ。まったく同じじゃねぇが、似たような例をしってる」
「ウソです! この人のどこが死人だというの!」
事実、謝伸の身体からは蓮の花のよい香りがするし、肌だってこんなにも瑞々しいのだ。
チッ、と舌打ちして月塊はこの女の説得を諦めた。たしかにパッと見はそうだから、そこを突かれると賢者の断言とて効果はうすい。たが妖たる者にはハッキリと判るのだ。この者はすでに死んでると。
「んで? なんでアンタみたいなのが、こんな処をウロついてるんだよ」
梅春は謝伸への呼びかけをやすみ、キッと月塊を睨みつける。
それはこちらの台詞である。そもそもコイツはいったい何なのだ。コイツもここまで到ってきたのなら味あわぬはずがなかろう。あの心身を蝕むような旅路を。だがこの男は、おそらくそのために失った腕を抱えても、まるでケロッとしている。馬鹿の居直りにしても度が過ぎている。
「私は──いえ、私達は仙人になるために来た旦那様のお供の者です」
「······ほう。てェことは、どうやら当りらしいな」
「······何がです」
月塊は牙ののぞく口をニヤリと好戦的にゆがめた。
瞑想のなかにあった張道陵はゆっくりと顔をあげる。
面にはビシリと一本縦に疵が走り、素顔ではないにもかかわらず、なにか巨大な感情を抑えているといった凄まじい迫力を発している。
「······やれやれ。どいつもコイツも」
道陵は立ち上がると奥座にある壁をひと撫でする。すると微動だにせぬような壁が鳴動しつつ観音開きにひらく。と、そこには怪物一頭もゆうに通れそうな巨大な窓が現れた。これぞ、ここ山海境の主のみがつかうことのできる主窓であった。
異物がすでにここまで来ていることはわかっている。ならいっそ、このまま外界へ逃れて時を待つか──いやそうか。脱出口はその異物に潰されていたのであった。チッ······。
彼は逡巡の結果、窓にこう命じた。
「中山最奥へ」
だが。
「待ちやがれ!」
追いすがる声が待ったをかける。
振り向くと、全力で駆けつけきたらしい月塊が、キッカリこちらを捉えているではないか。
「······ほぅ、もう来たか、ハナが利くな」
月塊はかぶりをふって息をついた。
「どーにか間に合った。やっとその面を拝めたぜ、仙人さんよ」
「お前はなんだ。なんの用があって我が領域に踏みいる」
相手からすれば当然の非難だが、月塊は悪びれない。
「なぁに、会えるモンなら会ってみたくなってよ。マトモな面した仙人ってヤツにさ。ま、マトモ──ってとこは期待外れだったらしいがな」
「フン······」
憎々しげに月塊を睨んでいた道陵の面の奥に光る眼に、スッと嘲りの色がまじった。
「マトモなツラ──というのは、こういう面のことかな?」
ゆっくりともっていった手で、顔にかかっていた惜しげもなく面をはずした。
「!!」
その瞬間だけは、さしもの月塊も脳天から雷を食らったように唖然とするしかなかった。道陵が勿体ぶってかぶっていたの面の、その下の顔は──
「てめ······! 乙越ッ!!」
忌々しい、もう二度とみたくもないあの仙人の顔であったのだ。
「だが──だが、そんなハズはねェ!」
月塊ははき捨てる。たしかに奴が死んだ確証はない。が、確信はある。ヤツであるワケが······!
月塊が固まっているうちに、乙越はニッ、と笑みをのこすと面をはめ、一気に大窓へとその身を踊らせた。
「あッ、テメ──」
ドォオオオーッッ!!
突如地響きとともに、まるで地の底から沸き上がってくるかのような、喚声とも怒号ともつかぬ音塊が、ビリビリと宮を震わせた。同時に湖で大人しく咲いていた大蓮花の巨大な触手どもが、湖面を煮えたぎらせるかのように乱して首をもたげる。月塊は一気に不機嫌となった。
「野郎! 絶対逃さねぇ! いい感じにこちとらの神経逆撫でしてくれんじゃねーか!」
帯に挟んでいた棍をジャギリとひき抜く。
闇のなか、したたかに打った身体をひきずるように、ただ真っ直ぐに歩を進める琴箭の姿があった。




