栄万、旅路の果てをみること
やれやれ、といったふうに張道陵はかぶりをふる。
天へと昇る伝手を得たと思ったら、実はその綱はきれる直前であったとしった栄万の心中はいかばかりのものだったろう。つづく老師の「まぁよい。お前だけでも用はたりる」との言には心底救われる想いがしたに違いない。
「こちらへ。後についておいで」
老師は言い、広々とした湖面を見渡せる舞台をすぎ、はり出しの方へと段を降りてゆく。栄万もひと辞儀すると、そそくさと後を追った。
湖面のうえに建てられたとおぼしき張り出しの中央には蘭干の途切れがあり、そこにたっぷり横幅のある大橋が架かっていた。長い長い橋で、湖岸のむこう、うっすらと朱の陰としてみえる離宮へとつづいているようだ。
あまりに広い、そして地底湖を横断するためか、途中は天然の霧に包まれていて、まるでその中へと延びていくようにも感じられる。
張道陵はまったくためらくことなく橋へと歩を進めた。栄万もおっかなびっくり、すこし軋むその橋げたに片足をおいてみる。見た目にもどっしりとしているし、踏んだ感も危なげないが、どういうわけかこの橋は彼を不安にさせた。
「どだい命というものは強欲なものじゃ。そうは思わんか」
老人のくせに栄万と変わらぬ步速をみせながら、老師は問わず語りに、こぼすように言った。
「······はぁ」
「なかでも人間がいちばんひどい。考える頭があるぶん余計じゃ。アタマがあるから素直に天行に従わぬし、逆に惑いすぎて折角の天啓をも逸する」
この老師はなにを言いたいのだ? 心中栄万は苦々しくおもった。まるで人間嫌いのような語草だが、そういうアンタらこそ、人のもっとも強欲な部分をつきつめた故に、我々凡俗の欲をもっとも刺激する存在ではないか。ついえることなき久遠にして究極の生命。それをてにしての永遠の悦楽。古今の皇帝さえも叶わぬことを体現した者。そんな存在がいまさら何を言うのだ。
「だが同時に、その激しい想い、願いも愛おしく思える。真に可愛い、可愛いものじゃて」
「それで、あの······仙人になるにはどんな修行を······?」
とんちんかんな問答のようになってきた会話を正道に切り換えるべく栄万が口をはさむと、張道陵はフ、と、橋の半ばほどで足をとめる。ヌウッ、とこちらにふり返った。
「なに、カンタンなことじゃて。この橋をこのまま渡りきればええ」
「──それだけ? たったそれだけで仙人になれると仰りますか?」
栄万は問い返しながら目をみはる。進むうち、また霧もどんどんと深くなって、いまや行く先は完全におおい隠され、橋は急に頼りなげな様子で白霧に呑み込まれてしまっている。
「──無論、ただ歩き抜く、といっても生半なことではないぞ。ここまでの道を思い返し思い返し往くことじゃ」
老師の言にハッとさせられる。たしかに。ここまでの道のりもマトモじゃなかった。すべてを削ぎ落とし、やっとこさであったのだ。となればこの橋の向こう側にもなんぞ待ち構えているやもしれない。
「いつでも良いぞ。覚悟をきめてゆけい」
栄万はごくりと唾をのんで、二、三度息を整えると、いざ、と一歩を踏み出した。
進んでみると、どうということはなかった。ただ延々と霧中に道がのびているだけである。橋以外は、澄んだ湖面での美しい蓮花などの折角の絶景もみえぬし、ただ蓮のはなつ甘い匂いが、心を誘惑するように香ってくるのみである。
だが、ここで気を緩めてはならない。
ともすれぱ緩みそうになる喜色の袋の口を、栄万は縛りなおす。
いささか自信の過ぎるきらいはあるが、栄万もさすがは大商家を築いた男である。物事は成就する瞬間がもっとも難しく危ういことを識っていた。
俺は負けん、俺は負けん。なんとしても仙人になるのだ! そしてこの世の永楽を極めるのだ······!
ゴポリ。
栄万は気付かなかった。澄み渡った湖水の奥底で、にわかに一握の泥が舞った。気泡がぽこり、とわずかに面を波立たせ、なにやら間の抜けた景色を、絵画のように調えられたこところに刻んだ。
最後の試練······? 今さらそんなもので俺を止められるものか。俺はここまで生き抜いてきた···! 手段なんぞ関係ない、みろ! 結果として俺だけがここに立っているではないか······!
ゴポリゴポリゴポリ。
泥の舞がとまらぬ。栄万が念を刻んで一歩を踏みだすたびにひと泡が生じ、どんどんと湖水は濁り煙ってゆく。だが霧は相変わらず深く、その変化に彼が気づく術はなかった。すうっ、と、幕のおくに建物じみた影がゆらいだ。
見えた! 抑うるに抑えきれず、栄万が満面に喜色を弾けさせた瞬間だった。
──ズワン! バババァァーーーーッ!!
壮大な水飛沫が噴き上がると同時、栄万の身体が殴りつけられるように横に払われる。
「──え?」
彼は喜色をたたえたまま宙空たかく持ち上がった。
みると何と! 湖底から現れたテラ光りする、棘のはえたドス黒く極太のなにかが我が身を持ち上げているのみでなく、先端の蕾のような膨らみが、まるで獣の貪口のごとくに咥えこまれているではないか。
「──うっ······うわぁぁぁぁぁ────ッッ!
!!」
まわりにもいくつもの同じ長物が現れいでる。蓮の蔦だ! それは湖に浮くあの大輪の蓮が花を咲かせるために水底から伸ばした蔦なのだ! その蕾は生意気にも、獣のようにキシャオオオッと奇声をはなった。
「なッ······なんだこれは──ッ! なんだこれはぁぁぁぁああッ!!!」
「···ホホ。どうやらお前さん、ちと生への執着がつよ過ぎたようじゃの」
見下ろすといつの間にか張道陵が追いついており、呑気にも髭をしごきながらこちらを見物しておるではないか。
「ふざ······ふざけるな! なんだこれは! なんでこんなモノがぁぁぁッ!」
「やれやれ、うるさいのう。言ったじゃろ、試練じゃと。ま、はやい話が落第じゃな、お前さん」
「···は?」信じられない。ここまで来て──あれほどのことをして達して、それで落第だと? 一分の隙も油断もみせなかったこの俺が?
「儂は好きじゃ。お主の──お主ら生命をもつものの生への執着。愛しゅうて、欲しくてたまらぬ。それこそ······喰うてしまいたいほどに······」
はもっ、はもっ。応えるように蕾の口が栄万の身体を小起器用にくわえなおす。頭をうえにして腹より下をすっぽりとその喉に納めてしまう。
「ひっ···!」
栄万は必死に抗おうとするが、まるで痺れたように体がきかぬ。はじめのひと噛みをやられた時に、すでに彼の自由はなかった。
ニヤリ、と、笑うはずのない能面が嗤った。
「安心せぇ。主の想いは形こそ違えど成就する。儂らの一部となることで輪廻の輪をはずれ、久遠の生命を得るのじゃからのォ······!」
「ふ···ふふ、ふざ···けるなぁぁッ! 俺はッ···俺はこんな所まで、喰われに出てきたのではなぃぃぃ! 俺は······ッ、俺はぁぁぁ······ッ!!」
もはやそれ以後を道陵が聞く気はなかった。用は済んだとばかりくるりと冷淡に背を向けると、すてすてと宮の方へ戻っていく。
「待てェッ! まて○☓△□☆☓─────」
呪いの言葉すら言い切ることは出来なかった。
内に充たされた酸によってジワジワ溶かされていた栄万の全身は、蕾のひと吸いごとに赤味が失われ、あっという間に骨と皮だけの土気色の人形と化した。
つつつ···っと、かつて栄万であったものが蕾の口のよこに、涎のようにひと筋流れおちた。




