琴箭、狍鴞とふたたびまみえること
すくなくとも萊萊の想いと努力だけは誠であった。流された水の方向を、土地の高低をもとに彼女なりに予測し、その広大な範囲を休みもせず駆けまわった。自身の安全よりも、まずは琴箭の生存の確認のみを天に乞う。山海経のうちなる妖獣としての総意というだけでは決してなかったろう。
だが、それはすべて徒労に潰えた。
しまいにはとうとう声がかれて、へたり込んでしまった。
「······琴箭ぇん、どこだよウ。ウチ······ウチ······ううぅぅうう〜っ」
「オイ」
予測すらさせず背後から声がかかり、一気に跳びあがった。そのまま間をとって身構えてみると、そこにはひとりの若武者がたっている。
黒髪に磨き抜かれた碁石のような黒の瞳。具足をつけ帯には黒い棍棒を一本ぶちこんでいる。どういうわけか右腕が肩より下が欠けており片輪だった。
「ななななな、なんだオマエはっ!」
自分と似てはいるが、あきらかにこの世のものではない異質の気配に、萊萊の毛は逆立ちっぱなしだ。対して、その妖は彼女の警戒なぞお構いなしといった風に語りかけてくる。
「アンタ、いま蔡琴箭って呼んだよな」
しまっタ! と萊萊は口を抑える。祠堂を破却して回っている一派だと思ったのである。ふるふると首をふるが、ごまかしきれぬのことは彼女にもようく解っていた。
「安心しろ──っつってもムリな話だろーが」その妖の青年──少年? は、ドサリと地面に胡座をかいて座った。
「これでも俺はソイツと一面識あってな。たぶんアンタよりか付き合いは長い。どうにも向こう見ずな奴だもんで捜してたんだ」
「······オマエ、よそ者だロ。なんでアイツが常世にいることを知ってルんダ? オマエ、仙人の手先じゃないのカ!」
仙人の手先? それが琴箭の奴をねらってるって?
月塊は心中で首をひねった。
なんかすでにやらかしやがったのか? まったく訳がわからん。まぁいい、どのみち奴をとっ捕まえることは優先だ。
「ちょい前まで一緒だったらしい野郎に訊いたからよ。奴の頼みでもあることだしな。そんでだ」
「単福!」ピョイッ、と萊萊はまたとびあがった。「なんダ! アイツ。あっちに戻ったタんじゃ······ソウか! ソウか! やっぱりアイツ、いい奴!」
もうそれ以上口を挟むことをさせず、萊萊はいきなり月塊に抱きついた。
「そうなんダ! タイヘンなんダ! 手伝ってクレ!」
「ん······う······」
瞼が重い。
意識のもどった琴箭は、横向きになっている自分に気づくと同時、えづいて一気怒涛に押しよせる吐き気にまかせて水を吐きまくった。それはもう、総身が痙攣をおこすかというほど吐きまくる。
傷めつけられて疲れた身体にはとにかくこたえた。そうして肺中の水を吐きだせたと思うと、即座にバッタリと倒れ伏す。
ぼんやりと横倒しになった視界に、かわらずの霧と、緑なす草々や野花なぞがうつった。辺りはひっそりとして、音といって聞こえない。ときおり遠くで鳥が囀るのがとどく程度である。
私······流されて······どこまで──
いけない、また意識が朦朧としてきた。今度眠ったらもう二度とこの瞼が開くことはない。そう感じたが、どうにもできぬ。この異界では疲れは大いに軽減されるとはいえ、それすらも及ばぬほどに彼女は弱りきっていたのだ。
幻覚か。
投げだされた髪の毛の先が、ちぢれ、ほどけ、細かな砂の如くなって大地に呑まれているような······
「!」
正真正銘、心底地獄の釜の縁をのぞいた思いだった。琴箭は死力をふり絞って両の肘で上半身をもち上げる。なんということか、彼女の肉体が外縁部から、衣もろともにジワジワと砂と化し、ほどけ始めているではないか!
数年前。まだ嫁ぐ前にみた光景を思いだす。
くろい毛並みの桃霞の背、はるか前方に渦巻く黒雲、荒れ狂う水。あのとき、もし魂までもが傷つけばどうなってしまうのかと怖れた。今まさに、昔日の懸念が現のものとなっているではないか。
なにか······なにか······ないの······っ。
すがるおもいで周囲に目を走らせる。と、そこでひとつの草に目がとまる。葱にも似たその形。そう、あの夫諸が食んでいた野草だ。それに萊萊からも聞いた憶えがある。あの草。
──たしか──なんと言ってたっけ。
迷ってなぞいらいない。琴箭は力の限りそこまで這っていくと、露を滴らせるその草の葉先を食い千切った。




