萊萊、山海境をものがたること
「なにそんなトコで黄昏ちゃってんの」
声をかけるまでもなく、萊萊はこちらの気配に気づいているようだった。わずかに黒い耳をぴくりと動かしてみせる。
「······なんだよウ。もう私に用はないんだロ。みんなのトコに帰れヨ······」
まだそこまで長い付き合いではないけれど、さすがにいじけているくらいは分かる声音だった。
「みんなもう嫌になっちゃったって言ってね。まあ、まともな人ならそう言うでしょうね」
琴箭はサクサクと草を踏んで、萊萊の座る隣のすこし低くなった大石のうえに腰をおろす。湿ってはいなかった。
「じゃあ、なんでおマエはここに来てんだヨ······」
「······私は進まなくちゃいけないからね」
きょろりとした萊萊の瞳が、上向きの琴箭の瞳とあう。
「······なんデ? どうしてそこまでして進もうとすルんだヨ。今度進みはじめたら死ぬかもシれないだゾ。またこんなことが起きるかもしれないんだゾ」
琴箭は彼女から視線をそらし、寂しげに笑む。
「······いまの私ってね。死、ってあんまり怖くないの」
「強がリ。死は誰だっテ恐イ」
「······そうね。本当はそれが当たり前。いま私はまともじゃないのかもしれない。死んだら夫に逢えるんじゃないかって、どこかでそう思いながらここまできた······」
「······夫? ソイツが北山にいるのカ? ?? でも死んだンダんだロ? それがなんデ?」
「······私のせい。いないのならばそれでいい、むしろ、そうであることを確認するために私は往くの」
あの日の光景が蘇る。夕暮れ。朱にのまれ、風にふかれて微かにふるえる松柏、白楊。まるで弱りきった心が生みだした幻影のような仙人の影。
「?? ······おマエ、わけわからン」
萊萊はよくまわる首をかしげて琴箭の横書をのぞき込むようにみていたが、その面からはなにも読みとることはできなかった。
「で、なんで諦めちゃたの?」
つとめて調子をあげて、琴箭は萊萊へと向き直った。
「弁解、あきらめたよね。アンタは自分のせいだと言った。でもね、私の耳には、やりたくてやったんじゃないのに······って、そんな風に聞こえたのよね」
「······空耳ダ。わるイ耳」
萊萊はそむけた顔のあたりをぐしぐしやった。
「······嘘、ついてタ。先に進むのに祭祀はいらなイ」
「うん」
「でモ、私たちの世とおマエたちの世がつながったちゃったのハ、祭祀のせいじゃなイ。長が、神域がふたつダといったのモ、私がみっつあルといったのも嘘じゃナイ」
「······」
「信じなくても、イイ。訊いてくれるだけデ、いい」
萊萊がボソボソとかたった話をまとめると、こういうことになった。
伝承によると、この異界が生まれたのは、おそらく四百年ほど前のこと。こちらの時代でいえば戦国時代の末といったところらしい。
以来、異界はゆっくりと発展をつづけ、中山域を中心にして形作られ、いまの形となった。
妖獣と人はそれぞれ表裏一体。陰と陽のごとくにして存在してきたが、ときに互いの世にまぎれこむことがあったという。
異界へときてしまった人間たちに課されたのは、異界の神々を祀る神事をとりおこなうことであった。『拡がる』ことを渇望し、どうかすると綻んでしまう神々を祀ることによって鎮め、異界の健やかなることを願ったのだそうである。
人が紛れ込むことはごく稀であったけれど、当初はそれで充分に事足りていたのだ。
その均衡が乱れはじめたのが、四十年ほど前のこと。
ひとりの仙人がやってきて以来、どういうわけか大勢の人間が一時にやってくるようになった。彼らは五斗米道をなのり、先にきた仙人、張道陵のもとで修行をつむためにきたと語った。
萊萊らは彼らを歓待した。彼らがいることで安定して祭祀をおこなえるであろうと。事実、彼らも協力的で、たがい相生ずる良好の関係であった。
いつからだろう、それがおかしくなってしまったのは。徐々にくる人間の数は増えつづけ、異界の拡がる速度が目に見えてはやくなってゆく。もはやいくら祭祀をしても追いつかないほどとなっていた。
五斗米道が神事の世話をしなくなり、かわりにやってくる頼りなげな人間らにそれを委ねるしかなくなっていったのも、それを助長してしまったのやもしれなかった。
「それでモワタシたちニは人間に頼るしかなかっタ。妖獣のみデやる祭祀じャ、なゼか神々は猛りをお鎮めニならなかったンダ······」
なるほど。その、ごくたまに生じた綻びで、人と妖獣は危ういながらも交流し、そこから妖獣と異界の噂がこちらの世に遺っていったということか。そして萊萊のいう頼りなげな連中というのが、自分たちのような仙道志願の者らだ。
なぜ狌狌たちが、こちらに祭祀をするよう嘘をいってまで勧めてきたのか。そしてなぜ、萊萊の言がコロリと変わってしまったのかも、それで一応はうなずける。
たったあれだけの時で南山域は拡がってしまったのだ。その展開は萊萊らの予想をこえており、だから萊萊は、急遽あらたにうまれた神域に対処を余儀なくされたのだ。
そしてそれは、異界の拡がりは今この時も速さを増していること意味している。
なにやらおぼろげながら臭ってくる。
この異界が山海経のなかだとすれば、四百年前に、何者かの手によって書物が記され、ここは誕生した。
書物のなかの常世。それが独りでに成長してゆくとは考えにくいわ······
おそらくは誰かが書き足すことによってそれは発展していったと思われる。ということは、最近まで──いや、もしかすると、現在もそれをする者がいるということにはならぬだろうか。
なんとか間に合いました······
誤字発見、修正いたします。




