月塊、真鶏と喧嘩すること②
名は知らぬ。会ったこともない。
それでも彼は、眼前にたつ、一見肉体的にはなんの変哲もない男のしずかな様子に自然口が悪くなるのだった。
「俺に何の用だ。アンタが噂の仙人か」
「おいッ!」
とうとう腹に据えかねた、といった様子で、長い男が立ち上がり、ズカズカと月塊のまえに踏み寄った。
「お前がいくら礼儀をしらずとも、あの御方の高貴なるを感じれぬとは言わさぬぞ! なんだその口のきき方は! 傅かぬか、戯けがッ!」
「あぁん? そういうテメェは何様だコラ。名乗りもせず連れてきやがって大層なクチきくんじゃねぇぜ。俺はいま、その『御方』に訊いてんだ」
「なんだ? 貴様!」
「なんだクラァ!」
「止めぬか」
ピシャリと笠をかぶった男がふたりを制す。やや語気をつよめたにもかかわらず、その気配はあいも変わらず穏やかである。そのことが、逆に月塊を神妙にさせた。臣下らしき長い男のほうへの効果は言わずもがなである。
長い男が跪いたのを横目に、月塊は口調をあらためて話を戻す。
「それで? 話ってのは?」
「まず名乗らせてもらおう。どうやら我が臣下が無礼をしたようだからな。私は叔均。田祖の任を授かっておる。そこなるは真鶏、我が家令だ」
もったいなくも主に気を遣わせてしまった真鶏は、ハハーッと大仰に頭をさげた。
「······悪いが心当たりはない。アンタが大物なのはわかるが、呼びつけられるほどの仲でもないはずだ」
「······盤の古馴染みだ、というだけでは駄目かね?」
「······知ってるんなら解るだろうが、あの男はガタイもでかいが顔も広い。自称がとれない奴も山ほどいる」
意外に慎重だな。叔均はフッと笑みをみせた。
「そうだな。では······すこし前にあの男から頼まれごとをしたはずだ。おもに水にまつわる処を回らされたろう。洞庭の湖のふた女神、黄河の夫婦······」
「野郎······じゃあアンタ」
「そう。彼は私の頼みをきいてくれたのだ。これで訊く気になってくれたかな」
はあっ、と月塊は盛大に息をはいてみせた。内心安堵したというのが実情であろう。なんの情報もないまま飛びこんできたところで目当てを超える存在に監視されていたと知れば、彼ならずとも心穏やかではいられない。
「わかった、こちとらどうせ興味本位だ。訊くだけは訊く」
よし、と叔均はうなずいてつづけた。
「話自体は簡潔だ。
この世にいま在るすべての祠堂を、ひとつ残らず破壊してきてほしい。徹底的に、だ」
誰かに呼ばれたような錯覚に、柳栄万は血走った目で背後をみる。大丈夫だ、誰も来ない。来られるはずながない。おいてきた者らの声がするなんて、空耳にすぎないのだ。
あれから妖獣の襲撃もないし、もっとも速い道程でここまでたどり着いた。たしかに安全とはいえなかったが、そもそもこの旅にそんな、存在もしない担保を求めるのは馬鹿げている。それは漢中までの道のりであろうと変わりなかったはずなのだ。他の連中とちまちま別の道を進んでいたら、今頃はもっと危急の憂き目にあっていたに違いない。
とにかく、いま自身の目の前にある光景だけが真実を語っており、事実なのだ。
『淳于毌逢山郷』
堅牢なる城門のふるびた額にはそう金文字が記してある。
われら夫妻はまごうことなく、みなが目指す最終の地、淳于毌逢山の入口にたったのだ。




