宿命を絶つは……
時が来て──ほたるは薙刀からぱっと両手を放した。
同時に右足が後方へ振り上げられる。
地面に対して平行を保ちつつ、薙刀は引力に従い落下していく。
それが遂に地面に接しようかという瞬間を狙って、ほたるはその石突を全力で蹴り飛ばす。
薙刀は地面すれすれを飛んでいき、クロハネの直前で跳ねるように軌道を変えて顔を目指した。
完全に相手の虚を突ついたつもりだった。
現にクロハネは大きく目を見開いて、愕然とした風な表情を浮かべていた。
しかし、ふと我に返ったのか、間一髪のところで躱されてしまう。
勢いそのままに薙刀は、垂直の軌道を描きながら曇天の向こう側へと消えていった。
顔ではなく腹に向かっていれば、決したかもしれない。
しかし、ほたるは既に次の一撃のために彼との距離を縮めていた。
近接格闘を行えるほどの近さである。
はっとした様子のクロハネと視線が交差する。
彼がなにかをするよりも、ほたるの方が速かった。
繰り出された技は平手打ち。
手首のスナップを効かせず、広げた掌を振って顔の側面を叩きつける様は、真横からの掌底打ちと言えよう。
そして顔の側面であっても柔らかな頬ではなく、それより少し上、眼球の横を狙った。
『タイマンで相手が人型ならば、初速の速い平手打ちで目を狙いなさい。そうすれば相手は必ず怯むから』
との母からの教えを忠実に守った形だ。
事実、クロハネからのカウンターはない。
視界が揺れて、それどころではないのだろう。
もっとも、ほたるとしては今の攻撃で頭部を破壊しようというつもりで放っていたから、この結果は不本意なものである。
(薙刀を捨てたのは早計だったかな!?)
焦りの要因がまた一つ増えてしまう。
ほたるはそれを鎮めるつもりで、母の言葉を思い出す。
『そうしたらね、腹パンよ腹パン。それで相手は動けなくなるから、がら空きになった頭をボッコボコにする。これ喧嘩の定跡!』
頷き、拳を固めた。
しかしながら、忽然とクロハネの姿が消えてしまい行き場を失くす。
こんなことができるのは例の影化能力だろう。
逃げるため、いやこの場合は一旦距離を置くためだろうか。
(そんなことはさせない!)
ほたるは右膝を限界まであげてから、大地を力強く踏みつけた。
そこに影があると予測したわけではない。
地表面を通して霊力を周囲へ拡散させるためであった。
果たして目論見は上手くいき、霊力波に触れたクロハネが影から飛び出してくる。
二メートルほど離れた所だ。
「ぐううぅぅ……!」
苦悶の呻き声をあげながら芝生に臥している彼に向かって、ほたるは助走をつけて蹴りを放つ。
しかし舞ったのは草だけである。
クロハネは「ひぃっ!」と小さな悲鳴をあげながらも、転がるようにして躱したのだ。
そして這う這うの体で逃げようとする姿に、ほたるは余裕を感じずにはいられない。
追い詰めている、既に奴の精神を屈服させている。
あとは、ただ渾身の霊力を叩きこめばいいだけ。
勝ったも同然である。
しかし、どういうわけか。以後、攻撃があたらない。
クロハネは影にもならず、地面の上を時に転がるように、時にはいはいをするように逃げ続けるばかりで、まるっきり無様な姿を晒しているにも関わらず、ほたるはトドメを刺せずにいた。
その所為で焦燥感がまた燻りだしていく。
残る時間は一分しかない。
たとえ、クロハネがどんなに今弱々しくあろうとも、三倍の霊力が失われてしまえば、たちまち気力を取り戻してしまうことだろう。
ほたるは、尻餅を付いた姿勢でずりずりと後退するクロハネに向かって、拳を振り上げた。
すると彼がまた小さな悲鳴をあげて、顔を庇うように両腕を構える。
だから腹部へ狙いを定めて、霊力を込めたそれを振り下ろそうとすれば──ふと気付く。
腕の隙間から覗く男の口元。
そこに薄っすらと笑みが零れていることに。
背筋を悪寒が走り、思わずほたるは拳を止める。
ずっと不思議には思っていた。
平手打ちと少しの霊力攻撃だけで、あのクロハネが、ここまでの怯えを見せるだろうか。
怒りに震えていた男が、こんなにも弱々しく変わるだろうか。
その疑念は今、確信へと変わった。
(こいつは既に知っている! この霊力が、ドーピングが長くはないって。だから怯えた素振りで油断させて、逃げに徹して時間稼ぎをしてた。……クロハネにそんな演技ができるなんて、私は思いもしなかった!)
自分はまんまと相手の掌に上で踊っていたのだと、ひとたび悟ってしまえば、ほたるの中の小さな火種は燃え盛る大火となって、その心を焼き尽くす。
瞳からぽろりと一滴の涙が零れ落ちた。
敗北の証であった。
その時を待ち侘びていたようで、黒羽天は哄笑を闇夜に響かせながら、右腕を伸ばして巫女の白い首筋を掴む。
「ハッ! ハハハハハッ! たまには弱者を演ずるのも面白かったぞ。しかし小娘よ、油断はよくないなぁ!」
喉を締め上げられるまでもなく、ほたるは言葉を返せない。
ただ静かに涙を流すのみ。
一方のクロハネは、先ほどまでとは打って変わって、満足げな笑みを浮かべている。
貼り付けたものではないことは、その弾むような声音で充分に理解できよう。
「さて、推測するに三分くらいかな、貴様のそれは。そして東風谷にも同じ薬を与えていると。つまりあと一分半は猶予があるか。もっとも戦意を失すれば無意味だな。生きるのも最早辛かろう。一思いに、殺してやろう」
と言いつつ、彼の手がゆっくりと力を増していく。
じわじわと死の実感を与えながら殺すつもりなのだろう。
一思いになど大嘘である。
クロハネは勝利を確信していた。
いや、既に勝ったものと思っている。
もしも、かつての友がここにいたならば、その行動には『油断と慢心だわな』との苦言を呈したに違いない。
未だに悪癖を治していないのかと、呆れたに違いない。
ほたるの視線は上を向いていた。
男の手によって顎を上げずにいられなかった。
その瞳に光が宿る。
彼女は、まだ勝負が終わっていないことに気付いたのだ。
瞬間──黒羽天の腕が胴体から別たれ、灰になって消えていった。
「あ……?」
彼は自身になにが起きたのか、なにが空から降ってきたのか、瞬時に理解できず目を見張る。
だが、ほたるは理解していた。
薙刀だ。
遥か上空に蹴り上げたそれが、重力に引き寄せられて男の腕を切断したのだ。
喉元が自由になって即座に、ほたるは地面に突き刺さった薙刀へ右手を伸ばす。
そして雄叫びを轟かせながら、片手でそれを引き抜いた。
体は慣性に従い一回転し、その勢いのまま鋭い刃が男の体を上下に両断する。
同時に愛刀は柄の真ん中からポッキリと折れてしまう。
空から地に帰ってきた衝撃で、既にヒビが入っていたのだろう。
ほたるは長い間尽くしてくれたそれに、心の中で感謝の言葉を告げると、クロハネの傍に近づいた。
下半身を右腕同様に灰と化されて、上半身を芝生の上へ落とされた彼は、今度こそ本当に這いつくばって残る左腕のみで前へ前へと進もうとしていた。
その先にあるのは、雲雀の体だ。
ほたるは彼の行く先を遮るように立ちはだかる。
すると彼が、諦めるような溜息を漏らす。
「驚いたよ、本当に……。全て策だったのか、薙刀を蹴り上げたのも、俺をあの場に誘き寄せたのも、あの涙も。まだ力が残っているうちに、手を出すんじゃあなかったな」
ほたるは静かに首を振った。
「まさか。そんな器用じゃないよ。全部、偶然だよ。運が良かった」
あるいは、引力が勝因であったと言えよう。
全てを引き寄せる力。
薙刀を彼の腕まで導いたのは、そのエネルギーである。
また、人と人との縁にしても、その力の一端なのだとすれば、東風谷雲雀と椿坂ほたるが出会ったのも引力のおかげであると言える。
そう考えれば、やはり万有引力こそが二人の勝因であり、彼の敗因であろうか。
「……そうか」
と力なく言ってクロハネが懇願するような視線を投げかけてくる。
「頼む! 俺はこのまま死ぬが、それはもう止められぬことだが、せめて最期は東風谷に、奴の手で討たれたい。頼む」
だから雲雀の体に向かっていたのかと、ほたるは得心がいった。
少しだけ考えてから、彼女は巫女装束の袂から拳銃を取り出す。
学校で雲雀が落とし、それからずっと預かり続けているうちに、彼女にとって三挺目の不要な拳銃に成り下がってしまっていたあれだ。
その銃口を彼の額に突きつければ、彼は悲痛な面持ちで「頼む」と繰り返した。
ほたるは、一言だけ告げる。
「幸せになんてさせない」
ぞっとするほどに冷たい声音だ。
彼のこの期に及んで己の望む死を求める姿がそうさせた。
黒羽天の表情が絶望に満ちたところで、ほたるは引鉄をひく。
一発、二発、三発。
それだけでは済まさず、無数の弾丸が雨のように彼の体に降り注いだ。
全てが灰となって、それを南からの風が東へと運んでいく。
ほたるも雲雀も知らないどこかへと連れ去って、土に帰るのだろう。
もう彼の妖気を感じることはない、二度と。
ほたるには感傷に浸る暇もない。
すぐさま雲雀を病院へと、送り届けてやらねばならないのだから。
飴玉の効果も間もなく切れるはずだから、のんびりしていられない。
と思いきや、雲雀の胸に空いていた穴はだいぶ塞がりかけている。
呪符と飴玉で予想以上の回復を見せていた。
ほたるにとって、これ以上なく嬉しい誤算である。
とは言え、流血の程度は激しかったのだからまだ安心はできない。
「雲雀ちゃん、動かすよ。揺れるかもだけど我慢してね」
そう優しく声を掛けながら、ほたるは彼女を背負って慎重に走り出す。
──こうして、東風谷の一族と一匹の天狗との間で、長きに渡って繰り広げられてきた戦いは終わった。
多くの犠牲者を出したが、それとはまるで無縁なる第三者の手によって、終結したのである。




