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黒羽天 ─愛憎の退魔少女─  作者: 壱原優一
第2章 “Loving can cost a lot, but not loving always costs more.”
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風の呼び声、桃の飴玉

 雲雀はその瞬間、奇妙な感覚に襲われていた。

 時間がゴムのように引き延ばされていって、一秒が十秒にも十分にも感じられる。

 漫画や小説で聞くところの、達人同士の極限とも言える戦いの中で得られる領域に達したのか、あるいは事故にあった人間が語るところのそれか。

 はたまた都合の良い夢か幻だろうか。

 白昼夢と呼ぶには、些か陽が沈みすぎている。


 世界の時が止まったようだった。

 風景は全て色褪せ灰色となっているが、先程まで真っ暗闇であった分、眩く思う。

 停まった時の中でも風が吹いている。

 前から後ろへ流れていく。


 雲雀の視線の先には、一人の男が立っていた。

 そいつの体に隠れてしまって、二人の様子は窺い知れない。

 まるで山伏のような格好で、鋭い嘴の生えた仮面をつけている。

 掛け軸に描かれた鴉天狗を見たことがあるが、それによく似ている。


 雲雀は彼が何者であるのか、本能的に直感していた。


「お前は……私なのね」


 薬によって後から備わったものではなく、遺伝子によって与えられた素質、霊巣を象る存在であると同時に、


「私の正しさ」


 良心であるとも言える。


 今まで眠り続けていたもの、無視し続けてきたものだ。

 雲雀の心は自分でも驚くほどに、静まり返っていた。

 その口から、ぽつぽつと言葉が溢れていく。


「本当は……わかってた。八つ当たりだなんてことは。ううん、それだけじゃない。妖怪を喰らって力を得ようとしたことも、ほたるをただ復讐のための道具として見たことも、全部間違ってることよ」


 男はなにも言わない。

 あの言葉を吐くこともない。

 その必要はもうないだろう。


「それでも私は……アイツを殺してやりたかった! だって許せないもん! パパとママを、お師さんを、みんなを殺されて許せるわけない! それは間違ってないもん!」


 男の腕があがり、彼はやはり黙したまま、雲雀の背後を指さした。

 彼女は瞳を濡らしながらその先を見て「あ……」と小さな声を漏らす。


 そこにいたのは、お師さんと呼んで慕っていた男の姿だった。

 幻覚だ、都合の良い夢を見ているに過ぎない。

 そう思って、彼の姿を消すことなど雲雀にできようか。

 だが彼女の意志ではなく、そうあるべくして、火渡涼二の姿は陽炎の如くゆらめいては消えていく。


 代わりに、そこへ現れたのは母の姿であった。

 夢に何度も見たそのままだ。


 それもまた掻き消えて、父がやって来る。

 歳の割には白髪が多い。


 そして最後に、椿坂ほたるが空間に浮かび上がって霧散した。


 雲雀はまた前を向く。

 そこには既に彼の姿もなく、その更に奥で対峙し合う二者の姿がありありと見て取れる。

 今まさにクロハネが雲雀の心臓を突かんと、右手の指先をピンと伸ばして肘を大きく後ろへ引いている。

 極限まで絞られた弓のようだ。


 この夢幻なる時が終わる時、彼女の命さえも途切れてしまうだろう。


 丹念に目元を拭って、雲雀が再びその目を開けば、そこには、ほたるの憧れがあった。


 右手をぎゅっと握りしめて、人差し指と親指を伸ばす。

 拳銃を見立てた形だ。

 人差し指の先端に力を込める。

 すると指を軸として、小さな竜巻が生まれた。

 とても弱々しく、ここでは射程距離に満たない。

 だが近づいて頭を狙えば、忌々しき敵を殺すことくらいできようか。


「……でも本当は違う。今、私が本当にしたいのは、ほたるを助けること」


 彼女が死ねば自分を想ってくれている人をまた失うことになる。

 三回目だ、耐えられない。


 だから一言だけ〝家族〟に謝る。

 復讐ではなく、ついこないだ出会ったばかりの少女の命を選ぶことを。

 しかし彼女が後悔することはないだろう。

 それが自分で選んだ道なのだから。


 雲雀は力強く一歩を踏み出した。

 風向きが変わった。凍りついた時間が解けだしていく。


 ビュゥビュゥという追い風の中で彼女の耳は、


「いってらっしゃい」


 と言う声を聞いた。

 母のものだと思った。

 それもきっと夢幻の残滓だったのだろう。

 自分に都合の良い幻聴だろう。

 あるいは思い出の欠片だ。

 だとしても自然と頬が緩んでしまう。


「いってきます。帰りは遅くなるから」


 ほたるに自分の行く末を託してみよう。

 それならば結果がなんであれ、受け入れられるから。




 ほたるは己の死を悟っていた。

 暗闇に順応した瞳は、先を見通せるようになっている。

 その目が見るは冷ややかな男の面差し。

 それから刀に見立てた掌だ。

 次の瞬間には手刀によって胸を貫かれてしまう自分の姿が、脳裏に克明なほど浮かび上がる。


 走馬灯ではないが、残念に思うことが一つある。

 雲雀のためになにもできなかったことを。

 これでは、いわば犬死だ。

 もっと確実な方法があったに違いない。

 しかしほたるは、あえて自分の命を賭けてみた。

 そのことに後悔はなかった。


 風が横切っていったかと思えば、男の一撃が胸元に迫る。

 ほたるが瞼を閉じることはない。

 故に見る。

 クロハネと自身の間に割って入った一つの影を。

 それに遮られる一瞬前に、彼の表情が驚愕に染まるのを。


 ほたるは絶叫した。


「雲雀ちゃん!!」


 その人物が東風谷雲雀であることに気付いた時には既に、真っ黒な手によって彼女の胸には大きな穴が開けられていた。

 そして、その体がぐらりと後ろへ倒れ込む。

 ほたるは雲雀を抱き留めて、後ろへ大きく後退する。

 クロハネからかなりの距離を取ったものの、追ってくる様子はない。

 彼は顔を両手で覆って、悔恨の呻き声をあげていた。


「雲雀ちゃん! 雲雀ちゃん!!」


 何度も声をかけながら、ほたるは彼女の身を大地に横たえる。

 意識はないようで、瞼がしっかりと閉じられてしまっている。

 胸から真っ赤な血がどくどくと溢れている。

 ほための瞳からも温い水が止まらない。

 だがまだ辛うじて雲雀は生きていた。

 心臓を僅かに逸れている。


「死なせないからね!? 生きなきゃ駄目なんだからね!」


 上まで赤くなった巫女装束の袂から、大量の呪符を取り出して地面に敷く。

 その上に雲雀の風穴がくるように体を移す。

 それから更に呪符を彼女の胸に被せる。

 すぐに真っ赤になった。

 それらの呪符は治癒の効果を持っている。

 しかし、即効性があるわけではない。限度もある。


 これらは己のために用意したものだった。

 ほたるには死ぬ覚悟もあったが、本当に死ぬつもりだったわけではない。

 雲雀の攻撃が一拍遅れて、自分がこうして胸を貫かれたならば、最後の力を振り絞って生き長らえてやるつもりだった。

 まさかそれを雲雀のために使うことになろうとは思いもよらないで。


 心底、疑問しかない。

 何度も「どうして」と口をついて出る。


「雲雀ちゃん……どうして……?」


 ほたるは彼女の復讐心に信頼を置いていた。

 必ず自分を無視して奴を殺すと。


『今日こそアイツを……』


 その言葉があったから尚更に確信したのに、どうしてこうなってしまったのか。

 どうして自分を守ることを優先したのか。

 ほたるには理解できなかった。

 あの瞬間、雲雀の指先に霊力が集中していたことを思いだす。

 それを一気に放出させて奴を討って、この戦いは終わりだった。

 自分と奴の間に、割って入る必要などなかった。


「どうして……」


 雲雀が小さく身動ぎをして、その瞼が持ちあがる。

 唇がぷるぷると震えていた。

 なにか言おうとしているのか。


 ほたるは思わず「喋らなくていいから!」と叫んだ。


 しかし雲雀は尚も唇を震わせる。

 そして遂に一言だけ発した。


「よか……った」


 にこりと笑顔を浮かべてそれだけを告げた途端、ふっと彼女の力が抜けて、また瞼が下りてしまう。

 意識を失っただけだ。まだ生きている。


 ほたるの中でなにかが芽生える音がした。

 一度は止まったはずの涙が、また零れ落ちる。


(雲雀ちゃん、ありがとう)


 ほたるは掌の中にある〝飴玉〟を決意に濡れた目で見つめる。

 呪符と一緒に取り出してから、ずっと握りしめていた。

 紙に包装された普通の飴玉のようだが、実は霊力の結晶だ。

 ほたるの六倍もの霊力を秘めている。

 飲み込むだけでそれだけを得られる。

 リスクはない。


 今日の戦いのために、治癒の呪符を自身で使う際の補助として、用意したものだ。

 正確には白桃仙人が用意したもので、修行を終えて眠りから覚めた際に握らされていた。

 その彼にしてみれば、倒したい者を倒すために授けたものだった。


(これを使えば、もっと楽に勝てたかもしれない。でも、そうしなかったのは、私のわがままの所為。……ごめんね、雲雀ちゃん)


 それを紙から取り出して、口に放り込む。

 桃の甘い味が広がった。

 表面を軽く舐ってから、ガリッと勢いよく噛み砕き半分にする。

 ほたるは雲雀の顎先を片手で持ちあげてから、もう一方の手で額を抑えて固定する。

 それから顎に添えた手でもって口をこじ開けると、彼女の生気を失くした唇と自分のそれとを重ね合わせた。

 そして飴玉の半分を、舌先で喉の奥へと押し込んで飲み込ませる。

 すると、じわじわと彼女の体に霊力が巡っていく。


 霊力は生命力から作られる。

 その際に消費される生命力は余剰分、つまり日々の活動に使用される体力と同義である。

 よって霊力を使い果たしても死ぬことはない。

 逆説的に、霊力を有している限り、人は生き続けられる。

 人に備わった生存本能が霊力を生命力に還元してくれる。


 飴玉には『ただし効果は三分間だけ』と記した紙が添えられていた。

 雲雀の寿命がここで尽きるか否かは、この三分間にあると言っていい。


 ほたるの心に後悔の念が押し寄せる。


(私は認められたかったんだね、きっと。雲雀ちゃんに、凄い奴だと思われたかった。だから命を賭けてみた。ばかなことしてごめん)


 それを強い意志で押し返すと、血糊の着いていない袖で涙を拭う。

 薙刀を手に立ち上がる。


(でも……貴女は選んでくれた。アイツじゃなくて私を。本当に雲雀ちゃんは凄いよ。あんなに憎んでたのに、チャンスだったのに、私なんかを選んでくれた。私にはたぶん、できない)


 そんな自分にできることは、ただ一つだけだ。


 ほたるはこくんと喉を鳴らして飴玉を飲み込んだ。

 それからクロハネへと向き直る。

 男は憤怒の形相で彼女を見つめていた。

 その声音も怒りの色に満ちている。


「おい貴様、なんのつもりだ。早く東風谷を病院に連れて行け。死ぬにしても、ガキくらい孕んでからでなければ困るんだよ」

「貴方の事情なんかどうでもいいけど……もちろん行くよ。でもそれは、貴方を倒してからね」

「倒せると思っているのか? この俺を」


 飴玉を半分にした以上、その霊力も半減してしまった。

 三倍の霊力を攻撃に転用し、自分では一切霊力を作らず内功だけを作って身体能力を限界まで引き上げても、勝てるかどうか正直わからない。

 だとしても、ほたるは退かない。

 決めたことを為さねばならない。


 だから胸を張って答える。


「倒してみせる」


 その身に満ちきった霊力が、ほたるの足を一歩前へと導いた。

 これで本当に残り三分だ。


 クロハネが半歩だけ左足を引いて、一瞬だけ怯えの表情を見せる。

 ほたるが気付かないほどに小さな変化であったし、すぐさま怒りに切り替わった。


 しかしそれは先程とは別種の怒りのようにも見える。


「ドーピングで気まで大きくなったか。だが貴様なんぞに、殺される俺ではない。今すぐ、それを連れて逃げることを許してやろう」


 クロハネの怯え。

 その根源にあるものは、ほたるではない。

 三倍程度では、彼女の力を脅威に感じることはない。

 彼が怯えを微かにでも抱くとすれば、かつての友くらいのものだろう。

 明澄はあろうことか、東風谷の血統でもない娘に風然を見出しかけたのだ。

 不利な状況であるのに、なお立ち上がるその姿勢を目にし古傷が疼く。


 そんな己に怒りを覚え、彼の本来の姿である嫉妬の鬼──もとい天狗の顔が表れたのだ。


 そうした感情の機微など露と知らず、ほたるは両手でしっかり握りしめた薙刀の切っ先を、クロハネに向けて声を張り上げる。


「断る! 私は貴方を殺して、雲雀ちゃんを助ける。そう決めた! この私が!!」

「慈悲の心で生かしておいてやろうと思ったが……やはり貴様を殺して俺が東風谷を病院にまで連れて行こうぞ!」


 クロハネが忌々しげに吐き捨てた。けれど彼は動かない。

 怒りに任せて突っ込んでくるような真似はしない。

 けんの姿勢である。

 言葉や顔色とは裏腹に頭はいたって冷静らしい。


 一方で、ほたるの内には明確な焦りがある。

 既に二十秒は使っている。

 しかし、それを見せてはならない。

 この力に時間制限があることを悟られてはならない。

 対峙したまま、更に十秒過ぎるのを待つ。

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