そして花は東に、風は西に
雲雀はベンチの端っこに腰かけて、電車が来る時を待っている。
あの日一命を取り留めた彼女は、大事を取った三日間の入院生活を終えて、先日退院したばかりである。
数日分の着替えを収めた鞄と、愛用の二挺拳銃を仕舞ってあるアタッシュケースだけが、相変わらず彼女の旅のお伴を務めるらしく隣の席に置かれている。
反対側を向くベンチには、椿坂ほたるの姿がある。
雲雀とはちょうど背中合わせになるような形で座っており、傍らに巫女装束と似つかわしくないギターケース、それから普通の手荷物鞄が置いてある。
学生にとっては夏休みだが、世間にとっては平日の昼間である。
ホームにはその他の客がまばらにいるが、ベンチの周りは彼女たちだけだ。
互いの背の間には申し訳程度の低い背もたれのみがあって、雲雀が身を深くそれに預ければ後頭部が微かに触れた。
どちらともなく「ごめん」と口にした。
顔が見えなくとも、彼女がくすりと笑うのを感じて、雲雀は妙に気恥ずかしさが込み上がってくる。
足元の汚れたコンクリートを爪先で擦った。
二人はこれから上りと下り、それぞれの電車に乗ってそれぞれの場所へ往こうというのだ。
そのために、ただ待っている。
雲雀にとって、このようなぼーっとする時間は久しぶりなものだった。
入院中はやれ検査だ、回診だで病院だというのに休まる時がなかった。
風が頬を撫でる感触が、とても気持ちよく思う。
チチチと鳥の鳴く声が聞こえて、雲雀はついつい見上げてみる。
けれどそこに姿はない、屋根の隙間にでもいるのだろう。
不意にほたるが、なにかを思い出したように口を開く。
「そう言えば私、雲雀ちゃんに嘘吐いてた」
「ふーん?」
雲雀は首を傾げる。
思い当たるものがなかった。
その反応に気付いてか、彼女は少し照れくさそうに笑ってから「大したことじゃないんだけどね」と付け加える。
しかしだとしても、一度そのように言われてしまえば、雲雀としてはなんだか気になってしまう。
「それで?」
「前にさ、退魔師の他になりたいものがなかった、なんて言ったでしょ?」
「ええ、覚えてるわ。嘘なの?」
「うん。実はあった、一つだけ。なりたいって言うより、なってみたいなぁって感じ。ちっちゃい子の夢みたいなものかな。実際ちいさかったし」
雲雀が(じゃあお嫁さんとか、花屋さんだったりして)などと思いを巡らせながら、
「なに?」
と訊ねると、彼女は小さな声で「……喫茶店」と答えた。
正直意外だというのが、雲雀の気持ちだ。
渋いとも思う。
「どうして?」
「んー……うちって神社だからか、おやつは和菓子ばっかりなんだよね。別に嫌じゃないけど、たまには洋菓子とかも食べたくなるわけで……」
「あぁ、それで自分で作ったりとか?」
「そういうこと。最初は流石に、お母さんに手伝ってもらってたけどね。で、まぁ、お菓子の次には普通の料理もするようになってね。喫茶店は甘いものも軽食も出すでしょ?」
「そうだけど、料理人とかパティシエールではなかったのね?」
「それがなんでか喫茶店だったんだよねぇ。コーヒーは淹れられないのに」
「ふふっ。なにそれ、喫茶店できないわよ、それじゃ」
そう言った途端、雲雀は彼女が息を飲む気配を感じる。
それを疑問に思い「どうかしたの?」と訊くよりも前に、ほたるが言った。
「雲雀ちゃんが笑うのって初めてだね」
「……そうかしら?」
「うん。見れなかったのが残念」
と背後からの声は、言葉の割に嬉しそうなものだった。
雲雀は思い返してみていた。
確かに近年では今のように笑った記憶が見当たらない。
皮肉や嫌味のためにしたことはある。
もっと遡れば見つかるだろう。
まだ純粋だったあの頃ならば。
そう思い至ると、雲雀の口からするりと言葉が零れ落ちた。
「ありがとう、ほたる」
「うぇ!? なに急に、もぉー」
ほたるがよっぽど恥ずかしそうな反応を見せた。
雲雀は更に続ける。
もっとちゃんと言わなくてはならないと思った。
「私、貴女に救われたわ」
「いやいや! そんな、私こそ命を助けてもらったし。お礼を言われるようなことじゃ」
「命だけの話じゃないわ。人生を救われたと思ってる」
あんなにも憎くて憎くて仕方がなかったクロハネが死に、雲雀には遂に復讐を続ける意味もなくなった。
しかし空虚さはなく、その後の人生がやって来ることにも恐れはない。
驚くほどに清々しく、今日の空のような気持ちが胸中に広がっている。
それはきっと、後ろにいる彼女なしには得られなかったものだろう。
もしも独りだったなら、生きていこうなんて思うことはなかったはずだ。
だからほたるが「大げさだよ」と言っても、雲雀は静かに首を振って思うがままを伝えた。
「本当のことよ。貴女がいなかったら、こんなにも穏やかな気持ちにはなれなかった。復讐をこの手で成し遂げられなかったことは……残念にも思うけれど、でも後悔はない。ほたるに託せて良かった、そう思うの」
そして最後にもう一度「ありがとう」と告げる。
「……うん」
とだけ、ほたるの返答があって、どちらとも黙りこくってしまう。
そのまましばらく待っていたら、間もなく電車がやって来るとの旨を伝える放送が頭上から降ってきた。
ほたる側の電車だ。あと五分もすれば着くだろう。
それで雲雀は訊いてみた。
「これから、どこへ行くの?」
「とりあえず、実家に帰るよ。宿題もあるしね」
「そう言えば学生だったわね」
「……雲雀ちゃんは? どうする?」
ほたるのように学校には通っていない。
中学を卒業してすぐに、雲雀は退魔師となるために各地を転々としていた。
今から行くという道もあるのだろうが、あまり考えていない。
退魔師を続けるのか、やめるのか。それもまだ考えがつかなかった。
「まずはお墓参りかな。みんなに、アイツのこと報告しないと」
「そっか。うん。それがいいね」
「その後は、まだ考えてない」
「いいんじゃないかな、それで」
「え?」
「お墓参りの後にさ、また考えればいいんだよ。それでもなにも決まらなかったら、その時は相談に乗るからさ。今決めなくていいと思うよ、私は」
その言葉に雲雀は、おぼろげな将来の姿が少しだけ見えた気がした。
そしてちょうど話の区切りに、ホームに電車が滑り込んで来て、背後のほたるが立ち上がる。
雲雀もまた見送りのため後に続いた。
白線の内側から、車両の内側に立つ彼女と向き合う。
ほたるが胸の前で小さく手を振りながら、はにかむ。
「私もね、まだはっきりと決められないけど、また喫茶店のこと考えようかなって」
「いいんじゃないかしら。素敵だわ」
「ありがとっ。じゃ、またね。落ち着いたらメールして」
「ええ、もちろん。次に会ったら……コーヒーをご馳走するわ。私の淹れたもので良ければ」
雲雀はお返しに軽く右手を挙げてそう言った。
ほたるの目が丸くなってから、また笑みに変わる。
「じゃあ、私はケーキ作るよ」
「ショートケーキでお願いするわ」
「任せてっ」
と、ほたるがガッツポーズを見せると同時に、電車の扉は閉じられた。
雲雀はもう一度手を挙げて去り往くそれを見送る。
車輪の音も聞こえなくなってから、また彼女はベンチに戻って一息吐いて、なんとなしに天を仰いだ。
ホームとホームの屋根の隙間、夏の空が覗いている。
夏真っ盛りだと天気予報で言っていたのを思い出した。
どうりで熱い風なわけだ。
雲雀の乗るべき電車が来るまで、もう少し掛かりそうだ。
【完】




