迷宮少女、憎悪の娘
吊るされたバスケットゴール、傍らに無造作に放棄された跳び箱の群れ、点々と静止し続けるバレーボールたち……他にも多種多様な体育道具が見受けられる。
天井はとても高い。
大人が何人肩車をすれば届くのだろう。
この広々とした建屋を充分に明るくするには、かなりの電力を消費するものと思われるが、今はその心配はない。
体育館は学校において最も広大な敷地面積を有する施設だ。
しかし、名の通りに体育のみを行うばかりの場所ではない。
例えば有事の際には、ここで寝泊りすることもあるだろう。
日常的なものでは、週か月に一度ほど全校生徒を呼び集めて、校長先生の尊いお話を聞くことだろう。
卒業式や入学式の会場にもなる。
体育館は幅広い用途に使われる、多目的ホールだ。
もっとも、この“学校”でその様子を見ることは二度とない。
体育館の前方には舞台がある。
だいたい成人男性の胸ほどの高さがある。
校長先生はそこに上がって、人々を見下ろしながらお話をよくするものだ。
文化祭のような行事があれば、バンド演奏や演劇の場ともなる。
その為、広場の側よりも強い光を必要とする。
スポットライト。
遥か高き所から、舞台を照らしている。
真っ暗な広場には見向きもせず、そこだけを煌々と照らし続けている。
まるで黒い紙から長方形を切り取ったかのよう。
真っ白な長方形には、五つの黒点がある。
それは三人の少年と、二人の少女の形をしている。
一つは、首を細い紐で縛り上げられて、中空で足をばたつかせながら「ぐっぐっ」と蛙の鳴き声のようなものを漏らし続ける人影。
だが、やがて自重に耐え切れなくなったようで、首がぐにゅーんと伸びて地に足が着く。
おかげで自由になった気道から苦難の音色を聞けるのは、ほんのささやかな間だけ、すぐに首は元の長さに戻って、また足をばたばたばたばた……。
一つは、床から生える、人の腕ほどの太さがある杭に腹部を貫かれて、甲高い悲鳴をあげ続ける人影。
また一本の杭が床から現れた、まるで筍だ。
鋭い先端が、じわりじわりと背に近づいていって、ずぶりと刺さる。
鮮血が散る。
瞬間、声が一オクターブあがる。
そして既に刺さっていた方の杭が、次第に縮んでいき床の中へと消えていった。
そして、また杭が……。
一つは、椅子に固定されたまま、見えざる力によって頭をぐるぐると回され続ける人影。
ぐるぐるぐると、首を捻じられ皮膚が螺旋の皺を刻む。
砕けた骨が互いにぶつかり合う音も響く。
そのうちコヨリよりも細くなった首は限界を迎えて、ぶちっ、と千切れ果てる。
その時だけ、苦しみの産声をあげられた。
だがまた首を元通りに繋げられて、ぐるぐるぐるぐる……。
一つは、空中で大の字に両手足を広げられ続ける人影。
周囲で鋏が得物を狙う禿鷹のように飛び回っている。
そのうちの一つが、指先に近寄りちょきんと刃を鳴らした。
絶叫が空気を震わせる。
またちょきんと鳴って足の指が切り落とされた。
幾つもの鋏が競うようにして四肢を先から細切れにしていく。
胴と頭だけになると四肢は再生し、また、ちょきんちょきん……。
そして最後に、中央に設置された演台の上で、観客側に背を向けて座る一人。
椿坂ほたるが輝きの中に地獄絵図を認めたのは、ちょうど体育館の真ん中辺りにまで歩みを寄せた時のことだった。
彼女は目の前の光景に絶句し、隣で歯を鳴らす文緒を気遣うことも忘れてしまっていた。
二人の気配に気付いたのか、少女が演台からぴょんと降りて向き直る。
「あっ」とほたるが声をあげた。
その顔はまさに、隣で震え続ける少女のものと瓜二つだったのだ。
(双子なのかな……?)
文緒と少女とを見比べながら、ほたるはそう思う。
隣の子がおさげなのに対して、舞台の子はゆるいウェーブのかかった長髪。
膝下のスカート丈に対して、膝上。
しっかりと着込んだブレザーに対して、胸元のボタンを多く外したシャツ。
身に纏う雰囲気はまるで真逆、ただ顔立ちのみが同じ。
突然、文緒が膝から崩れ落ちて悲鳴をあげた。
「ど、どうしたの!?」
ほたるもまた、その場に腰を下ろすと、文緒の背に手をやりながら優しく声をかける。
しかし、どれだけ呼びかけてみても、彼女は嫌々するように首を振って、自らの体を腕で抱くようにするばかりである。
何かを酷く恐れているように見えて、ほたるは前方の少女をつい強く睨みつけた。
舞台の光景を見てから、文緒がずっと震えていたことは確かだが、堰を切ったようにこうなったのは彼女を見た途端になのだ。
それになにより、
(ここまで近づかれたらよくわかる)
その表情はとても歪んでいる。
同じ顔の持ち主とは思えぬほどに。
口元で表す侮蔑と嘲笑の感情。
そして、その瞳の色は少し前に見たような気がするのだった。
退魔巫女としての直感が、こっちの文緒は何か危険だと告げている。
ほたるは右手に握る薙刀の切っ先を彼女に向けて一言「貴女は何者?」と訊ねた。
その間も左手では、文緒の背を優しくさすっていた。
だが、もう一人の文緒は答えずにニタニタと笑みを浮かべ続けている。
きっと絶賛公開中の舞台もこれと同様の表情で眺めていたのではないだろうか。
ほたるの表情が余計に険しくなる。
醜悪な笑顔を不快に思ったわけではない、この時ようやく彼女は気付いたのだ。
この文緒が内側に孕んだ禍々しい妖気に。
この文緒こそが、この世界の中心であることに。
ふと彼女から笑顔が消えた。
憎悪に塗れた瞳をそのままに、新たに口で表すは呪詛の如き。
「まだ生き残っていたとはね」
ほたるに向けられた言葉のようにも思えた。
しかし違う。
文緒が見ているのは、悲鳴をあげるのをやめて、亀のようにまるまって小さく震える文緒だった。
ほたるはそれを庇うように、前に体を差し出した。
薙刀を両手で握り、二人目の文緒との距離を測る。
五歩も踏み込めば、充分に切りかかれるだろうと見る。
そんな巫女を見てか、それともその後ろにあるものを見てなのか、禍々しい様子の文緒が舌打ちを一つする。
忌々しげに、憎々しげに。
やはりそれは、文緒に向けてのものなのだろう。
彼女の目には、ほたるのことなど袖の端すらも映っていないのだから。
「なーんで戻ってきたんだか。ばっかじゃないの?」
ほたるの知る文緒らしくない、砕けた口調で文緒は喋る。
それを遮るように、ほたるが、
「ねぇ、もう少し詳しく話してくれないかな?」
と問うても無視して彼女は続けた。
「うちはさぁ、すっきりしたいわけよ。それはアンタも同じはずでしょ?」
「私の方もすっきり答えてくれるとありがたいんだけどなー?」
「だってのに、なんなの? ほんと疲れる。なんか他にもうざいのがいるしさぁ」
「あ、それ私のこと? やっぱり見えてるじゃない。なら、こっちの質問にも答えて──」
そこで初めて、文緒が口を開いた。
「……ぜんぶ、おもいだしました」
背後から聞こえてきたその声に驚いて、ほたるは思わず肩越しに視線をやる。
「文緒ちゃん、大丈夫?」
「……そういうことだったんですね」
けれど、こちらの文緒にも無視された。
やるせない気持ちになったほたるは、ひとまず二人の話が終わるまでは黙っていることに決めて、ちらちらと交互に様子を窺うことに徹する。
後ろの文緒が、まるで独り言のように語りだしたのは、彼女の過去だった。
それはこの場の全員、舞台上で地獄絵図を演じ続ける四人の亡霊も含めて、ほたるを除いた全員が関係する過去だ。
それはあるいは、どこにでも転がっている話なのかもしれない。
肝試しの夜。
裏切りと、恥辱と、汚濁の物語。
繰り返される地獄の時間。
始めたのは女だった、友達のはずだった。
幸福な日常。
終わらせたのは男だった、級友のはずだった。
そして終わらせなかったのが、文緒だった。
復讐のために。
ある種の才能であろうか、文緒にはそれができた。
学校に異界を産み落とし、彼女と彼らに地獄を与え続ける、今なお与え続けている。
「でも、そうじゃない」
ほたるの背に隠れるのを止めて、文緒が姿を現した。
スカートはボロボロ、シャツもボロボロ。
至る所に赤い斑点がついている。
それこそが当時の姿であることは一目瞭然だ。
それを見てほたるは鼻の奥がつんとするようだった
もう一方の文緒は、一転して憐れむような視線を投げかけている。
そして優しく自分自身に問いかけるのだ。
「自分が望んだことでしょう?」
「そうだけど……」
「じゃあ、何も違うことないわ。ね、もっと続けましょう? まだまだ物足りないわ。ほら一緒に」
「でも違う、違うの」
「自分が望んだことじゃない。憎いんでしょ、悔しいんでしょ、殺しても殺し足りないんでしょ?」
「そうだけど……! でも、本当は、私はただ助けて欲しかっただけ!」
「でも助けてくれなかったわ、誰も。やめてって何度も言ったのに、笑うだけ」
文緒の瞳に憎しみの黒い火が灯る。
だがそれを否定するかのように、文緒が声をあげた。
「今でも思ってる! 助けてって。ずっとずっと、それだけなの! 復讐なんかよりもずっと強く……」
「それがうざいんだよ! 邪魔なんだよ。鈍らせんだよ、あいつらを殺す手を! でもアンタもわたしだから、せめて消さずに切り離してやったのに」
「だって、そんなことしたって助からない! 助かりたいの、私は!」
「自分を助けられるのは自分だけだ! 助けるんだ私は、私を。復讐は私を気持ちよくするんだ。だから助かるんだ。私は助かるんだ。助かる、きっと」
「誰でもいいから助けて欲しいの……」
「他人に頼るんじゃない! どうせ誰も助けてなんてくれない。あの日知ったことでしょ、友達なんて言葉だけで腹の底じゃ何考えてるんだか。親友だと思ってたのに、なんで」
「お願い、助けて……」
二人の文緒は最早、互いに互いを見ていなかった。
顔を伏せて、一人でぶつぶつと呟くようになっている。
もしも五歩の間を縮めるとするならば、絶好の好機である。
これを見逃すほど、ほたるもお人よしではない。
同情する点は多々あれど、仕事は仕事だ、目の前に異界の根源がいるのだから退治しないわけにはいかない。
それにもう一人の文緒とは約束もしたのだ。
ここから出してやると、成仏できるように手配してやると。
(私が助けるから、待っててね)
ほたるは霊力を全身に巡らせながら、薙刀を握る手により一層の力を込めた。
運動能力の強化は退魔師の必須技術だ、息をするように自然にこなせる。
また柄から刃先にまでも、しっかりと霊力を纏わせた。
例え幽霊のような実体を持たぬ相手でも、これならば薙刀が効く。
息を小さく吸って止める。
それを合図に、しゃがんだままの姿勢から一気に前へ飛びだした。
一歩。
二歩。
その時、眼前の文緒が跳ねるように顔をあげた。
三歩。
そして右手を前へと突き出し構えたならば、漆黒の球が頬を掠めて通り過ぎていく。
ほたるは四歩目を踏み出さずに、立ち止まって顔だけで振り返った。
「文緒ちゃん……?」
そこにいるはずの彼女に向かって、声をかける。広々とした体育館に、上ずった声は空しく響いた。
一拍後に返事があった。
爪先より先から「な、あ、に?」と。
かつてそうであったように、誰もがそうであるように、相川文緒はただ一人なのだ。
その彼女がもう堪えきれないとばかりに、失笑し、それはやがて哄笑となる。
げらげらと大きな声で笑いながら「ばぁーか!」と吐き捨て
「これで私は救われる!」
と天に吠えた。
瞬間、ほたるの脳内で何かが切れる音がした。
雄叫びをあげながら、文緒目掛けて跳びかかる。
薙刀による縦一閃。
だがそれは難なく躱されてしまい、反撃の黒球を左わき腹に貰った。
「ぐ、がっ!」
冷たい床の上をごろごろと転がる。
ここに来て初めてまともに攻撃を食らった瞬間だった。
即座にほたるは体勢を整え、彼女を注視する。
文緒はやはり右腕を構えていて、それを軸にして黒い球が五つほど、ぐるぐると飛び回っていた。
少し遅れて、わき腹がじんじんとした痛みを訴え始める。
恐る恐る様子を確かめると、装束が焦げたようになっていた。
その内側では、なんだかねちょねちょとした感触もある。
血が出ているのかもしれない。
だが軽傷だ。
ほたるは、ほっと一息吐いて立ち上がる。
それから袂から一枚の符を取り出せば、服の上から患部に貼り付けた。
いわゆる治癒の呪符である。
傷の治りを早めてくれる、優れた絆創膏のようなものだ。
文緒が忌々しげに言葉を吐く。
「うっざ。今ので死んどけよ」
「……あの子だって、貴女なのに」
「だから? 自分を殺さないなんて誰が決めたの。目的のためには己だって殺す。殺さなきゃダメなのよ!」
また黒球が飛んでくる。
それをほたるは左右のステップで躱していった。
野球のように途中で幾らか軌道を変えてくるが、ちゃんと見ていれば避けるのは容易いし、背後に抜けていった球が返ってくるようなこともない。
しかし隙を突くことはできるだろうか。
ほたるの精神は揺れ動いていた。
約束を果たす前に、文緒をむざむざと殺されてしまった。
助けも救いも与えられずに、消えていった彼女を思えば胸が締め付けられる。
そして、もう一人の文緒もまた文緒なのだという事実が、彼女の好きにさせてやったならば、それはそれで文緒を助けたことになるのではないか、という世迷言を思い起こさせた。
──「そんなことしたって助からない!」
もういない文緒の言葉が脳裏をよぎり、はっとした。
(そう、だよね)
ほたるの唇が、ぎゅっと真一文字に結ばれる。
ほたるが約束をした相手はその文緒だ。
相川文緒は二人いて、どちらも文緒には違いないが、目の前の文緒と彼女は違う。
彼女が本当に望んだ助けは、この文緒のものとは違う。
復讐以外の方法で、魂の救済を望んでいたに違いなかった。
だからこそ、彼女は「助けて」と言ったのだ。
ほたるは小さく、懺悔するかのように言葉を漏らす。
「もう助けてはあげられないけど……」
逃げるのを止めて、飛んでくる黒球を薙刀で叩き落とした。
そして声を張り上げる。
「でも助けるから! それが貴女の救いにならなくても、私は助ける!」
「意味不明! とにかく、その澄ました顔をぐちゃぐちゃにしてやる!」
先に仕掛けたのは文緒の方だった。
黒い球を放つのをやめ、漆黒の杭を両の手のひらから生やして、ほたるに襲いかかる。
だがその時、ほたるの瞳が捉えていたのは文緒ではなく、その後ろ。
腰ほどの長さがある髪を持つ、一人の少女の姿だった。
暗闇に赤いタイが眩しく映る。
少女の唇が音もなく「は、あ、い」と形作り、続けて、
「──久しぶり。はじめまして、また来世!」
文緒の脇腹を爪先で抉りながら、そんな挨拶を言い放った。




