6.
顔を上げた私の前に立っていたのは、前髪をハーフバックにしたマクス。……盛装している彼を、初めて見た。
レースがあしらわれた上品なハイネックの上着と、細身のスラックスは濃紺。裾や袖口の凝った刺繍は金色で、なぜか私のドレスと合わせたように見える。
何より、こんな格好だと――子爵令息どころか、高位貴族のような風格を感じるわ。整った顔が、豪華な衣装に負けるどころかひき立てられていて。どこからどう見ても、文句のつけようがない貴公子ね。
「……師匠。どうして、こんなところに」
「父の関係で連れてこられてね。抜け出した先に、お嬢様が先客でいるとは思わなかった」
女性受けがいいから、商談のために同行させられたのかしら。
「抜け出して、いいんですの?」
「ああ、ある程度の仕事はしてきたよ。お嬢様こそ、パートナーは……聞くまでもない、かな」
察してくれてはいるようだけど、こちらもどう答えたものか。
「それにしても、こんなに美しい婚約者を持って、何がご不満なのやら。ブラウハイト伯爵令息は相当目が悪いか、審美眼に問題があるのか知らないが、気が知れないね」
すっと、マクスが手を差し出してきた。
「お嬢様、お手をよろしいですか」
……何? 急に敬語になって。
よくわからないけれど、マクスに手を預けた。その手を引かれて、自然に私も立ち上がる。
「師匠、何か?」
じっと見つめられると、落ち着かない。
「――失礼。見惚れるほど、お綺麗なので」
「……それは、どうも。でも師匠こそ、女性が放っておかないでしょうに。だから逃げておいでになったのですか?」
「ふふ。月に誘われて庭に出たら、女神が座っているのを見つけてしまいました」
歯の浮くような台詞なのに、この顔に言われると悪い気がしない。
「ここまで、音楽が聞こえてきますね。よろしければ一曲踊っていただけませんか、お嬢様」
「師匠と?」
「できれば、今は名前で」
「……マクス様」
にこりとマクスが微笑んで、ガゼボから私を連れ出した。微かだけれど、ワルツが聞こえるわ。
マクスがゆっくりと、ステップを踏み始めた。釣られて、私も踊り出す。
流れるような足運びだわ。元軍人の子爵令息で、こんなに優雅に踊れるもの?
マクスのリードが巧みなものだから、私も踊りやすい。体が覚えているとはいえ、最近はまともにダンスの練習なんてしていないのに。
「月明かりは、お嬢様によくお似合いですね」
「太陽にはなれませんから」
「そういう意味ではありません。闇を照らす眩しさに目を奪われますよ。エレオノーレ様」
マクスに名前を呼ばれたのは、久しぶりね。
お世辞にしては言い過ぎだわ。さっきのシグルドへの非難といい、彼に無視されている私を慰めてくれているつもり?
この三年半、師匠のマクスが私を導いてくれた。
……そうね。きっと、マクスは太陽。彼がいるから、私も輝けるのだわ。
「どうかなさいましたか?」
「わたくしが月なら、師しょ……マクス様は、太陽だと思いまして」
「月は女神。太陽は男神です。悪くありませんね」
この世界でも、ギリシャ神話やローマ神話に近い考えがあったか……覚えていない。
どちらでも太陽と呼ばれて謙遜もせず、神話を持ちだすなんて大したものね。もっとも、この姿で謙遜されても嫌味に聞こえそう。
「笑ってくださいましたね。そのほうがいい」
「……わたくし、笑いました?」
「ええ。雲間から、満月が現れたようです」
前世の記憶が戻って以後、張りつめることが多くて、自分でも笑わなくなったと気づいていた。マクスの前だと、気が緩むのね。
曲のクライマックスで、くるりと体を回されて、すとんとマクスの腕の中に入ってしまった。
一瞬抱きしめられたような気がしたけれど、すぐに腕が緩んで距離を取り、マクスが右手を胸に、左手を横に上げて礼をした。
「お付き合い、ありがとうございました」
「こちらこそ。……マクス様、あの」
「申し訳ありません。そろそろ、迎えがおいでのようですので、失礼いたします。
また、公爵邸で」
私が返事を返す前に、遠くからシグルドの声が聞こえた。
振り向くと、私と目が合った。シグルドは大股で、こちらにやってくる。
「探したぞ。ずっと庭にいたのか? 誰か一緒だったのか」
ちらと後ろを窺ってみたけど、マクスの姿は消えていた。シグルドに気づいて、さっさと退散したのね。
賢明だわ。師匠と弟子と言っても、未婚の男女、しかも私は婚約者がいる身だし。二人きりで庭にいるところを見られたら、誰が相手でも面倒なことになる。
「思いがけず友人に会いまして、話し込んでおりました」
「……男か?」
「女性です」
シグルドは疑わしそうな顔をしている。どうせ、大して興味もないのでしょうに。
会場に戻ると間もなくパーティーは終わり、客はそれぞれに帰っていく。
ああ、帰る時間だから私を探したのね。
ブラウハイト伯爵も来ていたから、シグルドは父親と直接伯爵家に帰ると言った。好きにすればいいわ、こちらは公爵家の馬車で来たのだし。
お父様たちは別の馬車であとから帰るとのことで、私は一人で馬車に乗り込んだ。
外の景色を眺めていると、マクスの顔が頭に浮かぶ。
マクスは素行不良で軍を退役した、女遊びのせいだと言われていたのよね。お父様が否定したから私も違うだろうと考えたけど。今日の慣れた感じは――本当に遊び人だと言われても、納得できる。あの顔であんな風に優しくされたら、大抵の女は参るでしょう。
私はあまり、社交界の噂は知らない。本当のことも、今の噂も知らない。
少し、寂しい気がするのはなぜかしら。
……きっと、疲れたのね。久しぶりに、こんな場に出たから。
目を閉じると、眠くなってきた。
* * *
……暗い森の中を、誰かが走っている。泣いて、怖がって。
何かに追われて、転びそうになりながら逃げている。
エレオノーレ?
黒い影が、彼女を追う。追っているのは――魔物。
気づくと、もうエレオノーレの目前に魔物がいる。
『いや……助けて、シグルド!』
哀しい、必死な叫びが、森に木霊した。
はっと、目が覚めた。私は、馬車に揺られていた。
――夢。
汗をかいていて、寒気がした。
エレオノーレの叫びが、悲しさが、私の胸に残っている。
シグルドは、エレオノーレを助けには来なかった。遠い場所で、セシリアと過ごしていた。
あなたは最後まで、彼を呼んでいたのに。
魔物になったあなたを、彼は……
小説のくだりを思い出して、頭を振った。あれは、この世界ではまだ起こっていないこと。
だけどもしも、小説に書かれなかった真実があったなら。
あなたは、シグルドに恋をしていて……彼を助けを求めながら、魔物に呑まれたの?
馬車が公爵邸に着いても、悪夢の記憶が心と体を重くしていた。
湯浴みをして、寝間着に着替えて寝室に戻る。もう夜更けなのに、眠くならない。
馬車の中で居眠りをしたせいか。
お父様とお母様は、もうお戻りかしら。
なんとなく窓辺に近づいて、外を見ようとして――窓に映った自分が、泣いて見えた。
エレオノーレ。
私は驚いた、はず。けれど、窓に映る顔は滂沱したまま。
『わたくしでは、彼の心は捕まえられないの。
わたくしは、彼のための生贄だから』
寂しげな声が、頭に響く。
「エレオノーレ……あなたは、本物のエレオノーレね!?」
涙を拭うことなく、エレオノーレの幻影が窓から離れ、頭上に舞い上がる。
「エレオノーレ! 待って、エレオノーレ!」
『わたくしは、もう……諦めたの』
幻影が消えていく。手を伸ばしたけれど、擦り抜けて――
何も、見えなくなった。窓には、手を伸ばした私自身が映っている。エレオノーレの姿をした、自分が。
心の中に、強烈な喪失感があった。
エレオノーレが、消えた。
今完全に、消えてしまったのだ。
シグルドを、生きることを、諦めて。
ぽとりと、私の目から涙が落ちた。
「ごめんなさい……エレオノーレ」
あなたは、今までずっと私の中にいた。私が前世を思い出したために、あなたは自分の運命に絶望してしまったのかもしれない。あなたを助けたかったのに、できなかったのね。
あなたに希望を与えることが、叶わなかった。
そうして、あなたは消えた。私に、あなたの体を残して。
私はしばらく、その場で泣き続けた。ほかの誰も知らない、エレオノーレのために。
シグルドを想い続け、恋心が届かぬままに消えた悪役令嬢。
――でも、これだけは誓う。
「絶対に、私を生贄になんてしないわ」
今の私は一人ではないから。私を強くしてくれるのは、私の意志だけではない。
私を心配してくれる家族がいる。
そして誰よりも、私を導く師匠がいてくれるのだから。
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※次回は明日8時頃更新予定です。
明日は8時・12時・18時50分頃の3回更新を予定しています。
次回一行予告:シグルドの想い。




