第09話 大脱走、保険付き
決行の日は、あっさりとやってきた。謝罪と浄化の効果が現れて、扉の前から二人の衛兵が消えたのだ。代わりに侍女が一人、夜間の宿直に配置された。でもやる気がないのは相変わらずだから、どうとでも対処できるだろう。
そして迎えた雲の厚い日は、闇に紛れるにはうってつけの夜だった。衛兵の巡回パターンも、しっかり下調べを終えている。
あとは最後の障害を、ひとつ片づけるだけだ。
「このお酒、儀式で余ったの。よければ飲んで」
シンプルな寝間着に着替えを終えた私は、自分付きの侍女――今夜の宿直の娘に、陶器でできた酒壺を差し出した。中身はプラチナリングの浄化の儀式に使う名目で手に入れた、かなり強い蒸留酒だ。
侍女は最初きょとんとしていたけれど、小ぶりの壺の中身が上等な酒だとわかると、ぱっと顔を輝かせた。
「まあ、いいんですか?」
侍女は嬉しそうに酒壺を受け取ったが、そこで手が止まった。さすがに王族付きともなれば、侍女でもそこそこの良家の出だ。コソコソとつまみ食いはするけれど、堂々とラッパ飲みとはいかないのだろう。
「ささ、これを使うといいわ」
一度がっかりさせたところに、おあつらえ向きの酒杯を続けて渡すと、侍女はあっさりと飲み始めた。
勤務中に飲酒するなんてと思うけど、この国の多くの葡萄酒は度数が低くて、安全な飲水程度の扱いだ。冬場は身体をあたためる名目で、衛兵が勤務の合間に飲むこともある。
だがそれは、葡萄酒ならばの話だ。蒸留酒は、圧倒的に度数が高い。だからふだん葡萄酒しか飲んでいない若い侍女には、かなりきつかったようだ。半分も飲まないうちに頬が赤くなり、目がとろんとしはじめた。
大あくびをしたかと思えばテーブルにもたれかかって、そのままスヤッと寝落ちした。耳を近づけると、規則正しい寝息が聞こえてくる。完全に熟睡しているようだ。
見張りを酔っ払わせて潰すのは昔話の王道だけど、ここまで効くとは思わなかった。もうちょっと時間がかかるかと思っていたけど、ありがたい。
寝息が続くことを慎重に確認してから、私は静かに動き始めた。
まず、窓の外のバルコニーに向かう。倉庫から調達しておいた長いロープの端を、手すりにしっかりと結びつけた。そのまま外へ向けて垂らすと、ローブはするすると闇の中に伸びてゆく。
もちろん、このロープを使って降りるわけではない。これから脱出するのは、あの秘密の通路だ。でも窓からロープを垂らしておけば、『窓から脱走した可能性』で、追っ手を撹乱できるだろう。捜索の目が迷路のような王宮の庭園に向いている間に、私は地下をくぐって別の場所に出るのだ。
偽装工作としては初歩的だけど、初歩的なほうがかえって疑いを抱きにくいらしい。人は、期待した通りの答えが好きなのだ。
準備を終えると、侍女の寝顔を見た。安らかな顔で、スヤスヤと眠っている。
起きたら、すっごく怒られるでしょうね。まあ日頃の行いが悪かったよね、ということで。
――食べ物の怨みは、怖いのよ。
私は悪い笑みを浮かべつつ静かに自室の扉を開けて、隙間から廊下へ滑り出た。
深夜の宮殿は、昼間とはまるで別の顔をしていた。灯明の護石が等間隔にぼんやり灯っているだけで、廊下のほとんどは暗い闇に沈んでいる。
できるだけ音を立てないように、靴は履いてない。でもヒタヒタという自分の足音がやけに大きく聞こえて、一歩踏み出すたびに指先が冷えるようだった。
衛兵の巡回時刻は、頭に入っている。今はちょうど交代するタイミングで、この廊下を通る者はいないはずだ。
慎重に、角を一つ曲がる。そこからは長い廊下が続いていた。念のため明かりの届かない暗がりを、壁に手をつきながら進んでゆく。
ふいに、前方から足音が聞こえた。
心臓が喉元近くまで跳ね上がる。
とっさに、装飾用の彫像が置かれた壁面のくぼみに、ぐっと体を押し込んだ。石の聖人像の影に身を潜めて、息をころす。
足音が近づいてくる。規則正しい、重い靴音。灯火を持った、巡回の衛兵だ。
いつもと少し違う。とはいえ、想定はしていたことだった。現代日本人のように毎日きっちり定刻で動く方が、異常なのだ。
分かってはいたけれど、心臓がバクバクと鳴る。こんなところで見つかったら、ゲームオーバー……というほどではないけれど、計画のリセットが必要だろう。
――足音が、すぐそばまで来た。
灯火に照らされた衛兵の影が、床に長く伸びる。あと数歩で、この彫像の前を通る。くぼみの陰は大きいけれど、さすがに覗き込まれたらおしまいだ。
衛兵が立ち止まった。ひゅっと息を呑む音が漏れそうになって、私は口を押さえる。
衛兵はボリボリと首の後ろを掻いて、また歩き出した。私の潜むくぼみの前を、何事もなく通り過ぎてゆく。遠ざかっていく靴音は、やがて角を曲がって行った。
――ようやく音が消えて、私はほっと息を吐いた。背中が、汗びっしょりになっている。
そういやこの宮殿はあくまで私の自宅なんだから、衛兵に見つかったところで「ごめーん眠れなくて散歩してた!」で済むはずなんだけど、なんだか妙に寿命を削られた気がする。
気を取り直して、再び廊下を進む。ようやく、執務室の前にたどり着いた。
深夜の執務室に衛兵はおらず、すんなりと扉が開いた。重要なものは鍵のかかる書庫へ、一日の終わりに全て収められているからだ。むしろ緊急時の脱出口が執務室にあるからこそ、鍵をかけないでいい運用にされているのかもしれない。
部屋の中へ滑り込み、左奥の壁に近づいてゆく。一見すると何の変哲もない石壁だけど、図面と一致しない位置にある。
例の複製した錫の鍵を、小指にはめる。手が微かに震えて、私は深呼吸をした。
改めて壁のレリーフを見ると、埋め込まれた飾り石の一つが護石でできていた。その護石の下のくぼみに、鍵をしっかりと押し当てる。
――カチリ。
小さな、けれど確かな手応えがあった。動力源は、運搬の護石あたりだろうか。護石がはまった壁の一部が、音もなく奥へ引っ込んでゆく。
その向こうに、暗い通路がぽっかりと口を開けていた。地下へと続く石段が、深い闇の中へと吸い込まれるように伸びている。
一歩足を踏み入れると、冷たく湿った空気が頬を撫でた。
ちょっとだけ振り返って、王宮での生活を思い出す。十八年間を過ごした自宅。充実していたとは言えないけれど、ここが私の世界のすべてだった。
――さようなら。これまでどうもありがとうございました。
自然に頭を下げてから、私は小さく苦笑する。今思えば、私はそれほど両親が嫌いというわけではなかった。ただ、親離れをするときが、巣立ちのときが来ただけだ。
きびすを返して、通路の先へ歩き出す。
背後で、壁が音もなく閉じた――。




